浦学OBの活躍・情報
敬称略

2023年 

二木一平 30期 現:弁護士
浦和学院野球部出身、23歳で司法試験合格
二木一平弁護士が球児にエール
「全力で頑張れば、人生で必ず生きる」


甲子園春夏通算25度出場、2013年センバツ優勝を誇る高校野球の強豪・浦和学院野球部は
多くのプロ野球選手を輩出していることで有名だが、司法試験合格者も1人いる。
「二木法律事務所」の弁護士・二木一平さん(31)だ。
白球を追い続けた高校時代から、23歳で司法試験に合格するまでの道のりを聞いた。

★高梨雄平、歳内宏明とも対戦

埼玉・春日部出身の野球少年だった二木さん。小学生から野球を始め、中学時代はボーイズリーグで硬球を握った。
進路を浦和学院に絞ったのは、小3の夏に見た2000年埼玉大会決勝がきっかけだ。
浦和学院・坂元弥太郎と春日部共栄・中里篤史による投手戦を制した「URAGAKU」のユニホームに憧れた。

「ずっと野球しかしていませんでした。中学の頃も勉強は授業を受けるぐらいで、塾には行ってません。
とにかく甲子園に出たかったんです。どこが一番確実かなってなると、浦和学院は3年間の内、
1度は甲子園に出ていた時代。そこで頑張ればチャンスがあるんじゃないかと」

入学後は周囲のレベルの高さに度肝を抜かれた。同期は30数人。
2学年上には中日から高校生ドラフトで1巡目指名された赤坂和幸、
1学年上には後にオリックスの育成選手となる坂本一将や、現在同校の監督を務める森大らがいた。

「練習は厳しいと思って入っているんで、そんなもんだろうとは思ってました。
一番キツかったのは朝の6時半から、10キロ近く走るんですよ。
グラウンドのホームベースに集合して、全員で走るんです。コーチにタイムを測っていただいて。
朝、本当に寝ぼけながらスタートして、だんだん2周目ぐらいで目が覚めてきて(笑)」

「その後は腕立て伏せ。私は体が重い方だったので、走るのも苦手だし、自重で体を支えるのも、結構大変だったんです」

チーム内の競争は激烈だった。右打ちの外野手である二木さんにとって、ベンチ入りへの道のりは遠かった。

「左投手に対しての代打要員ですね。最上級生の時は2軍で試合に出て、たまに1軍へ呼ばれたこともありました。
ベンチ入りできたのは2年秋の市内大会。背番号17だったと思うんですけど、それだけです。
相手先発が左と予想してスタメンだったんですが、メンバー交換したら右ピッチャーで。
お情けで1打席打たせてもらって、その後すぐ代えられました(笑)」

「練習試合では、1学年下で川越東の高梨雄平投手と対戦したことがあります。
当時は普通に上から投げていましたね。あとは2学年下の聖光学院・歳内宏明投手とか、覚えていますね」

★毎日バットを振るように、勉強すればいい

2009年、最後の夏。二木さんのメンバー入りは叶わず。そしてチームも甲子園には届かなかった。

「本人って、メンバーに漏れるかは大体わかるんです。春の大会が終わったぐらいから、
当落線上でも、何となく分かる。ベンチに入れない選手だと、多分メンバーが決まった時点で、
高校野球は一旦区切りなんです。もちろん勝って欲しいし、甲子園にも出て欲しいですけど、
選手としては一旦終わりになる。
だからメンバーに入れなかった選手たちは、進路についてレギュラーよりも早く考えるんです」

二木さんは野球部員のクラスにいた。しっかりと授業を聞き、準備をして定期テストに臨む生徒だった。
平均評定が高かったことから、指定校推薦で独協大法学部に入学した。

「ずっと野球しかしてなかったんで、大学入学後は暇なんですよ(笑)。
だったら、今までバットを振ったり走っていた時間を勉強に使ったら、資格の1つも取れるのかなって。
法学部の資格って、当時は弁護士しか知らなかったんです(笑)」

大学1年の秋、二木さんは司法試験の予備校に入学し、一から勉強を始めた。
司法試験は言わずと知れた難関であり、突破するには明晰(めいせき)な頭脳と強い精神力を要する。
小・中・高と秀才であったとしても、合格までの道のりは平坦ではない。

だが二木さんは、事も無げに言った。

「今になって思うんですけど、そんなにつらくなかったです。僕たちは朝6時半から走って、
眠い中でも練習してやってきた。正直、野球の方がつらかったですね」

浦学で白球を追い続けた日々が“財産”となって、難関突破の原動力になったと語る。

「好きだから、できるんですよ。野球も好きだから、ずっとやっていた。だから勉強も好きにならなきゃなって思っていました。
好きなことは、毎日やるのは当たり前。司法試験の勉強も、そんな感じで前向きにやっていました。
毎日走ったり、バットを振るように、勉強すればいいだけの話だって」

★浦学野球部は「原点」

19歳で勉強を始め、23歳で司法試験に合格。25歳で弁護士登録した。
10代の頃、仲間と必死に厳しい練習を乗り切れた自信が、弁護士としてハードワークに臨む自身を助けてくれるという。

今でも高校野球を愛し、母校の試合は速報をチェックする。今の二木さんにとって、
浦和学院の野球部とはどんな場所だろうか。

「原点じゃないですかね。こういう仕事なので、深夜までやらなきゃいけないこともあれば、
心理的なストレスもかかりますけど、『走るよりマシだな』と思えるだけでもすごい楽です。
弁護士の世界も競争ですが、高校野球のレギュラー争いの方がスタメン9人、
ベンチ入り20人や18人って枠が決まっているから、そちらの方がずっと厳しいと思うんですよね」

今年も夏の地方大会開幕が近づいてきた。
3年生の中にはかつての二木さんのように、メンバー入りを逃し、涙に暮れる人もいるだろう。
どんな境遇であろうと頑張り続ける若者たちに、エールを送ってくれた。

「最後まで自分の中で続けてやりきれれば、将来何かやりたいことが出てきた時、
同じようにエネルギーを向けてやればいいと思うんです。
それは部活を続けた人の持つ、すごいアドバンテージになると思います。
全力で頑張れば、野球以外の人生でも、必ず生きると思いますね」

2023年6月6日 スポーツ報知ネット配信
 
木塚敦志 16期 現:横浜DeNA投手コーチ
DeNA・斎藤、木塚コーチが示す「配慮」の姿勢
これも首位を支える原動力


4月22日、マツダスタジアムでの広島戦試合前。

中堅エリアで調整する投手陣の中で、木塚投手コーチと4年目の坂本裕哉投手が、
並んで立ち話をしていた。開幕1軍入りした坂本は、4月4日の巨人戦で7回から2イニングを
投じて以降、登板機会がなかった。

木塚コーチ「投げる機会がなくて申し訳ない。ストレスがたまっているだろう。
何か言いたいことがあったら何でも言ってくれ」

坂本「そんなことは何もありません。全然大丈夫ですっ!」

会話は約10分続いた。その翌日の23日、坂本は出場選手登録を抹消された。

そして5月6日のヤクルト戦(神宮)。
不調のエスコバーの代役として再度出場選手登録されると、10-5の6回から登板し、
自己最速152キロを計測して2回1安打無失点。32日ぶりの1軍マウンドで快投を演じた。

5月8日の横浜スタジアムでの投手練習。取材に応じた斎藤チーフ投手コーチは明かした。
「バウアーに言ったんですよ。“俺が100回言うより、お前が1回言う方が選手は聞く”と。
それに、選手にも“俺が全てではないと常に言っている。
(指導が)合わないと思ったらすぐ止めろと”。彼らの野球人生だから」。

斎藤、木塚両コーチともに、現役時代の実績は十分。だが、この2つのエピソードから
判断できるのは、2人が経験に基づく指導を前面に出すのではなく、選手に寄り添い、
選手を尊重する姿勢を持っていること。
坂本も自身の立場を自覚し、復帰後にしっかりと結果を出した。

首位を走るDeNAの投手陣は好調。現在29試合を終え、防御率は3.19。
ちなみに三浦監督が就任してから過去2年、21年は同試合終了時で4.95、昨季は3.76。
数字が全てではないが、両コーチの指導は結果に表れている。

このようなコーチ陣の「配慮」も、DeNAの快進撃を支える要素であることを忘れたくはない。

2023年5月11日 スポーツニッポン配信
 
今成亮太 26期 現:野球ジムオーナー
元阪神の今成氏が子ども向けの運動教室を開校
子供たちの成長を応援


プロ野球の阪神、日本ハムでプレーし、現在は解説者やタレントとしてマルチに活躍する
今成亮太氏(35)が17日、西宮市内で子ども向けの運動教室
「Kids Growth Theater」を開校したと明かした。

同教室は映像、音響、照明を使った没入型教育プログラムを日本で初めて導入。
今成氏は「子供たちの成長する姿を一緒に応援させてもらいたいです!」と意気込みを語った。

今成氏は18年の現役引退後3年間、「タイガースアカデミー」でコーチを務め、
現在は自身がオーナーを務めるスポーツアカデミーで子供たちへの指導を続けている。

2023年4月17日 デイリースポーツ ネット配信
  
今成亮太 26期 現:野球ジムオーナー
阪神OB今成亮太氏
「甲子園プラス」の1日PR大使に就任
「大人から子どもまで楽しめる場所」


甲子園球場に隣接する商業施設「甲子園プラス」の開業1周年イベントが4日行われ、
阪神OBの今成亮太氏(35)が「1日PR大使」に就任した。

「飲食店やバッティングセンターなどがあり、大人から子どもまで楽しめる場所。光栄です」とあいさつ。
同氏はオリジナル名刺の配布や野球指導などでファンとふれ合った。
同施設内には、昨年リニューアルした甲子園歴史館の展示エリアもある。

2023年3月4日 日刊スポーツ ネット配信
 
 
今成亮太 26期 現:野球ジムオーナー
【阪神】OB今成亮太氏が1日PR大使就任で野球指導
「甲子園プラス」1周年イベント 


阪神電鉄は24日、甲子園球場に隣接する商業施設「甲子園プラス」が3月3日で
開業1周年を迎えるにあたり、「甲子園プラス1st anniversaryイベント」を行うことを発表した。

イベント期間は同4、5日。4日は球団OBの今成亮太氏(35)が1日PR大使に就任し、
任命式、オリジナル名刺の配布、各店舗訪問や野球指導などを行う。
また甲子園プラス対象店舗で、購入に応じて参加可能な「抽選会」や甲子園プラスを利用した人を対象とする
おもちゃ釣りなどの「縁日コーナー」など、さまざまなイベントを開催する。詳細は公式ホームページで。

2023年2月25日 日刊スポーツ掲載

甲子園プラス 公式サイト
  
 坂元弥太郎 21期 現:野球スクール指導者
元ヤクルト坂元弥太郎氏が異例キャンプ参加
打撃投手「勉強になることばかり」指導者として向上へ


ヤクルトの沖縄・浦添キャンプに、元ヤクルト投手が異例のスタッフとして参加した。

第3クールの初日となった9日、ヤクルト、日本ハム、DeNA、西武でプレーした
坂元弥太郎氏(40)が特打で打撃投手を務めた。
元山や武岡らに対して投げ「久しぶりにすごく緊張しました。自己採点は50点くらい。
全球、打ちやすいボールを投げられなかった。ここから少しずつ精度を上げていきたい」と明かした。

西武で現役を引退してから10年。現在は埼玉県内で野球スクールの「Yataro スポーツベース」で
小中学生を指導しており「もう1度、プロ野球を学びたい」という思いが強くなった。
球団と交渉し、キャンプ中の約2週間、スタッフとして加わることになった。
キャンプに合わせ、投球練習など自身の調整もしてきたという。

初日はまずキャッチボールやティー打撃を間近で観察し、村上の打撃練習は動画で撮影。
フォームや技術についてコミュニケーションも取った。
「勉強になることばかりで、とてもありがたい」と感謝していた。

“指導者”としてのアップデートを目指し「貴重な機会をいただいたので、充実した時間にしたい」と意気込む。

2023年2月9日 日刊スポーツ ネット配信
2022年
  
 坂元弥太郎 21期 現:野球スクール指導者
尊敬する宮本慎也さんに教えてもらいたい
坂元弥太郎氏が指導する野球教室でやっと実現


プロ野球界の師弟関係が、20年の時を経て新たな形となった。

元ヤクルトの宮本慎也氏(52=日刊スポーツ評論家)が28日、埼玉県内で野球教室を行った。
ヤクルト時代のチームメートである坂元弥太郎氏(40)が指導する
「Yataro スポーツベース」で、コーチを務めた。
坂元氏からのオファーを受けて実現。小中学生の約50人を指導した。

アップの際には、キャッチボールの重要性を語った。
「何げない時のキャッチボールでも、しっかり自分の形で投げて」と、ボールの握り方やフォームを見せながら説明。
数球投げただけで、汗がにじむ。それくらい体を使う。
「キャッチボールがうまくなると、野球がうまくなる」と言う。

宮本氏の横で、言葉にうなずきながら聞き入る坂元氏がいた。
約2時間の野球教室を終え「夢がかないました」と感謝した。

坂元氏がヤクルトに入団した01年、宮本氏はすでにレギュラーとして活躍していた。
その年、ケガでリハビリ中だった宮本氏が、イースタン・リーグに出場することになった。
先発は坂元氏。試合前、緊張しているとロッカールームで声をかけてくれた。

「もしエラーしたら、ごめんな」

驚いた。30歳の1軍レギュラーから、一回り年下の新人への言葉。
坂元氏は「普通は言えることじゃない。どれだけ1プレーにかけているのか。すごい人だと思った」。
翌年、初めて1軍キャンプメンバー入り。そこから、食事に行くなど師弟関係が始まった。
ポジションは違うが、宮本氏は「おもしろいヤツだったから。一緒にご飯行ったり、遊びに行ったりしたね」と振り返る。

2人とも13年に現役を引退。
野球スクールを始めた坂元氏は「尊敬する宮本さんに野球教室で教えてもらいたい」とずっと熱望しており、やっと実現した。

絆は、つながっていく。
スクールOBで、巨人育成5位の桐蔭学園・相沢白虎(はくと)内野手(18)が、あいさつのため訪れた。
中学3年間通い、スクールOBとして初めてNPB入り。
相沢は「打撃も守備も弥太郎さんに教えていただいて、感謝している。支配下になって活躍して恩返ししたい」と誓う。

頼もしくなった相沢を、坂元氏は笑顔で見つめた。
「支配下になったら、東京ドームの試合に招待してくれるんだそうです」。新たな師弟関係が、つながっていく。

2022年12月31日 日刊スポーツ掲載

坂元弥太郎 21期 現:野球スクール指導者
【あの甲子園球児は今 浦和学院・坂元弥太郎】
野球塾で80人指導 技術指導「全体の1割」の理由


00年8月11日。浦和学院のエースだった坂元弥太郎は、八幡商(滋賀)との1回戦を前に、気持ちを落ち着かせていた。

初回は四球、死球で走者を背負ったが、5番打者から空振り三振を奪い、無失点で切り抜けた。

「相手の情報はほとんどなかったので、最初はわざとボール球を使ってバッターの出方を見ていました」

持ち球は直球とスライダーの2種類だけだったが「同じ握りでも横に小さく曲げたり、縦に変化させたり、
指、手首の使い方で投げ分けていた」と、数種類のスライダーが武器だった。

4回に失策も絡んで1点を失ったが、打者の観察を済ませると、自らの投球に集中。毎回、三振を奪った。
5回に勝ち越し2-1のまま終盤へ入った。7回2死からは7者連続で空振り三振を奪い、19奪三振。
149球を投じ、1安打1失点で完投した。

56年ぶりの大会タイ記録(当時)となる19奪三振。得意球のスライダーで13個を奪った。
「全然、ピンと来なかった。三振は狙っていなかった。試合が終わって
記録のことは知りましたけど、実感はなかったですね」と回想する。

2回戦は柳川(福岡)が相手だった。
「優勝候補でしたし、スライダーを狙ってくると思った」。
勝負球には直球を選択したが、初回に4安打を浴び4失点を喫した。
その後は立ち直ったが、チームは1-5で敗れた。

大会後、高校日本代表で柳川の選手と再会すると、意外な事実を知った。
「直球狙いで、スライダーが来たらごめんなさい、というミーティングをしていたみたいで…。
自分の取り越し苦労だったことが分かって…」。
2回以降はスライダー中心の配球に戻し、16三振を奪っただけに、苦い敗戦となった。

プロではヤクルト、日本ハム、横浜、西武の4球団でプレーし、13年に現役を終えた。
サラリーマンを経て、15年からは埼玉県内で「Yataro スポーツベース」という野球スクールの講師を務めている。
主に小中学生を中心に、約80人の指導にあたる。
モットーは「自力をつけること」。体づくりをメーンに、技術指導は「全体の1割程度」だという。

「たとえば、コントロールが良くない子に、変化球を教えたところで何にもならないと思うんです。
それよりも体を正しく使えるように強くしたり、体をうまく切り返せるようにすることの方が大事。
メニューはいろいろと勉強して、考えて作りました。技術や戦術は高校に入ってからでも遅くはないんです。
自力があれば競争できる。それをここで身につけてもらいたい」

昨夏の甲子園。盛岡大付に進んだ教え子がホームランを打った。
浦和学院に入学した2人の選手は、今春選抜で4強まで勝ち進んだ。
「成長した姿を見るのは本当に楽しみ。やりがいのある仕事だと思います」。
自力をつけた教え子の活躍が、自身の励みになっている。

★坂元 弥太郎(さかもと・やたろう)
1982年(昭57)5月24日生まれ、広島県出身の40歳。
浦和学院3年夏に甲子園出場。00年ドラフト4位でヤクルト入り。
日本ハム、横浜、西武でプレーし、13年に現役引退。通算238試合に登板し19勝20敗、防御率4.37。
1メートル82、86キロ。右投げ右打ち。

2022年8月7日 スポーツニッポン掲載

須永英輝 24期 現:北海道日本ハムベースボールアカデミーコーチ
小学校高学年で野球始めても追いつけない?
元日本ハム投手が語る“上達の近道”


★日本ハム、巨人でプレーした須永英輝氏、怪我がきっかけでサッカーから野球に転身

小学校中学年でも高学年でも遅くない。
投手として日本ハムと巨人でプレーした須永英輝さんが、本格的に野球を始めたのは小学校4年。
周りと比べるとスタートは遅かったが、浦和学院高(埼玉)ではエースとして春夏3度の甲子園に出場し、プロにも入った。
明確な目標や向上心があれば、野球は上手くなると断言する。

2016年まで13年間プレーした須永さんは現在、日本ハムのベースボールアカデミーでコーチを務めている。
指導をするのは小学生のほか、未就学児もいる。

野球を始めるのは小学1、2年のころが多く、高学年になると野球に興味があってもチームに入るのをためらう子どもや保護者は多い。
出遅れを取り戻せず、特に上のレベルで続けるのは難しいと感じるのも理由の1つだ。
だが、須永さんは「小学校中学年、高学年で野球を始めても遅くありません。固定観念は可能性を狭めてしまいます」と言い切る。

実際に須永さんも小学3年までサッカーをしていたため、本格的に野球に取り組んだのは小学4年だった。
サッカーで足の指を怪我して、しばらくプレーができなくなったことから、上半身を動かせるスポーツで
2歳年上の兄がチームに入っていた野球を始めた。「最初は難しくて、野球の面白さが全然分かりませんでした」。
グラブやバットを思い通りに扱えず、苦労の連続だったという。

それでも練習を続けていくと、時々、安打を放ったり、三振を奪ったりした。
その喜びが忘れられず、自ら進んで素振りやシャドーピッチング、壁当てをするようになった。
うれしかった場面を思い浮かべたり、もっと活躍するイメージを膨らませたりしながら自主練習した。
試合に出られるようになり、勝利すると今までにない楽しさを感じた。

「次も試合に勝ちたい、今度は本塁打を打ってみたい、投手をやってみたいという気持ちで練習していました」

★中学1年で初めて甲子園をテレビ観戦、聖地でのプレーを目標に設定

日々の練習の成果もあって、須永さんは試合に出場する機会が増えていった。
サッカーで培った体力やフットワーク、視野の広さや声かけも野球に生きた。
そして、シニアに所属していた中学1年生の時、さらにモチベーションを高めるきっかけが訪れる。

「父がテレビで見ていた甲子園を初めて見ました。大歓声の中、泥だらけでプレーする選手がかっこよくて憧れました。
大歓声の甲子園でプレーしたいと思いました。そのためには中学でレベルアップして
結果を残さないといけないと、練習への意識が変わりました」

練習では、甲子園のマウンドや打席に立っている姿を思い描いた。
自宅に帰ってからも想像を膨らませて、バットを振り、シャドーピッチングしていたという。

須永さんは浦和学院に進学し、1年秋からエースとなった。
2年春に選抜高校野球大会でベスト8に入るなど、3年春まで3季連続で甲子園に出場した。
中学1年で掲げた目標を達成。園児や小学校低学年で野球を始めた選手に追いつき、追い越した。

「野球を始める時に学年は関係ありません。目的や目標ができれば上手くなるスポーツです。
全国大会や甲子園を目標にする必要はありません。安打を1本打ってみたい、試合で1勝したい、
何かに向かう挑戦や努力に意義があると思います。やってみることで、分かることや感じることがあります」

アカデミーコーチになった須永さんは、目標を持つ大切さや個々に秘めた可能性を子どもたちに伝えている。

2022年7月10日 Full-Count配信 

石井義人 17期 現:野球教室経営
越谷で野球教室を開講 元埼玉西武・石井義人さん
指導は少人数 プロ輩出を


プロ野球の巨人や埼玉西武などで活躍した石井義人さん(43)が、
越谷市大竹の室内練習場「M2スポーツフィールド」で野球教室を開講した。
指導対象は軟式・硬式問わず小中学生、高校生、社会人で、10人の少人数レッスンを実施。
「開講を機に脱サラを決め、指導者として覚悟を持って臨みたい」と意気込む。

川口市出身の石井さんは、浦和学院高時代に3度の甲子園出場を経験。
ドラフト4位で横浜(現DeNA)に入団し、埼玉西武、巨人で18年間プレーした。
現役引退後は独立リーグの武蔵(現埼玉武蔵)ヒートベアーズで打撃コーチを務め、
日本女子プロ野球リーグでも指導者として活躍した。

本格的な野球教室の開講は初めて。対面の技術指導で、各個人の目標達成に向けノウハウを伝える。

「ユーチューブで指導映像を身近にかつ簡単に見ることができるが、分かった気になるだけでは意味がない。
基本をしっかり身につけ、対話重視で上達に向けたサポートをしたい」と指導への熱い思いを語った。

「心のどこかで野球への思いを捨てることができなかった」と話す石井さん。

前職のトラックドライバーを辞めて、不退転の覚悟で生徒と向き合う。
「やるからには一人でも多くのプロ野球選手を輩出できるよう、本気になって取り組みたい」と決意を語る。

月・水曜日は小学5、6年生と中学、高校生、土曜日は社会人向けで開催。
詳細や予約など問い合わせは、石井さんのインスタグラムまで。

2022年6月27日 埼玉新聞掲載

石井義人 Instagram

今成亮太 26期 現:野球ジムオーナー
元阪神の今成亮太氏、野球ジムで古巣にゲキ!
苦境打破のカギ「鳥谷さんの姿勢を参考にせよ」
埼玉県富士見市に開業


2018年限りで現役引退後、昨年まで「タイガースアカデミー」で指導にあたり、
今年独立した今成亮太氏(34)が今月、科学的な野球ジム「ディーエーアカデミー」を埼玉県富士見市に開業させた。

全国5カ所にあるアカデミーのうち、今成氏はフランチャイズオーナーとして、拠点のある兵庫県西宮市に続き、出身地にもオープン。
今成氏は「プロ野球選手のセカンドキャリアとして紹介され、ジムの経営に興味があった」と乗り出した。

室内練習場で、野球の基本動作である「捕る」「打つ」「投げる」の動作解析を軸とした指導を行い、
科学に基づき学ぶことによって技術の向上を目指すもの。
幼児コース(50分)、小中高コース(60分)、大学社会人コース(60分)があり、
提携する独立リーグ「埼玉武蔵ヒートベアーズ」の選手も指導。西宮校は野球コースと、ゴルフコースがある。

父・今成泰章さんは阪神、日本ハムで40年以上活躍し、エンゼルス・大谷翔平投手の獲得にも携わった名スカウトで今年3月に急逝。
父への思いも込めジムは「今成校」と命名した。生まれ育った街での開業に
「プレッシャーや責任を感じますが日本ハムと阪神、2球団で培った柔軟にものを考える経験を生かしたい」と意気込む。

今季は日本ハム戦の解説やリポーターを務めているが、
やはり気になるのは今季20試合を終え3勝16敗1分けと苦しむ阪神だ。

今成氏は「戦力を客観的に見ても、若いレギュラーが中堅となり、キャリアハイを迎える時期。
去年は近本、中野、梅野らタイトルホルダーも出てきた。
純粋に優勝候補に推していた」と予想も、想定外の事態に。
「選手もどうすればいいのか、頭の中はパニックになったのでは」とおもんばかる。

負けが込んだ昨季後半戦同様、はつらつさに欠ける選手たちの姿は暗く感じるとみる一方で、
チーム状況が悪いときこそ「真価が問われる」と強調する。

解決の糸口となる人物には一緒にプレーした鳥谷敬氏(40)の名前を挙げる。
調子がよしあしはもちろん、結果を残してもあえて感情を出すことなく冷静さを保った。
「暗い顔をしても誰も得をしない。プレーでも言動も、ずっとやり通すことって難しいですが大事なこと。
トリさんの貫き方は参考になる」とうなずいた。

2022年4月19日 夕刊フジ掲載
2021年

坂元弥太郎 21期 現:野球スクール指導者
今成亮太 26期 現:野球スクールオーナー
元阪神の今成亮太氏が野球教室でコーチ「いかにコツを伝えられるかを意識」


ヤクルトや日本ハム、横浜(現DeNA)、西武でプレーした坂元弥太郎氏(39)が指導する「Yataro Sports Base」の
埼玉県内の室内練習場で29日、毎年恒例の野球教室が行われ、元阪神の今成亮太氏(34)がコーチを務めた。

阪神時代のユニホームで登場。自分の体をどううまく使うかなど、トレーニングの時間を長くとり、丁寧に説明していた。

打撃練習では、ハンマー投げや弓道など、他のスポーツの動き方を例に出しながら解説。
「いかに、簡単に分かりやすく、コツを伝えられるかを意識しています」と話した。

坂元氏とは浦和学院OBのつながりがあり、日本ハム時代にはともにプレー。
「(プロ野球選手の)マインドを教えてもらった先輩」という。今成氏は埼玉県富士見市出身で、富士見市PR大使も務めている。
「地元に貢献したいという思いがあり、野球振興やスポーツ振興にもつながっていくと思います」と話した。

坂元氏は、後輩の指導する姿に「体の使い方や練習で、選手の弱点をすぐに見抜いて、とらえているなと思った。
レベルの高い指導をしてもらいました」と感謝していた。

2021年12月29日 日刊スポーツ ネット配信

今成亮太 26期
球団の人事異動を発表 アカデミーコーチの今成亮太氏が退団

阪神は24日、2022年1月1日付の人事異動を発表した。

すでに就任会見を行った百北幸司氏が、藤原崇起オーナー兼社長に代わって、新社長に就任。
今季限りで引退した藤川俊介氏、伊藤和雄氏らがタイガースアカデミーのコーチに就任する。

またアカデミーコーチを務めていた今成亮太氏、横山雄哉氏、長年チームを支えてきた権田康徳トレーナーらの退団も発表された。

2021年12月24日 スポーツ報知 ネット配信

鈴木健 8期
実況・小野塚康之 時代を超える名調子
縦断高校野球列島(37)~香川県~
別世界!伊良部の全球ストレート勝負
鈴木健と至高の対決 全く落ちなかった球威

1987年第69回選手権、尽誠学園対浦和学院戦は格別な楽しみがあった。
伊良部秀輝(元ロッテなど)対鈴木健(元・西武など)。タイトルを付けるなら〝至高の対決!〟。

『四番サード鈴木健君』と場内アナウンスされ、両者が対峙(たいじ)するたびに期待の歓声が銀傘にこだました。
私は中継のインタビュアーだったので「一球一球見逃すものか」とネット裏に陣取った。

マウンドに立つ伊良部は右の本格派、187センチ78キロ、足が長い。あごが張り意志が強そうで細い目の光は鋭かった。
躍動感があり、ワインドアップで超高校級のストレートをビュンと投げおろす。

一方の鈴木健はプロ野球選手のような風格があった。186センチ88キロ。左打席で悠然と構えどこにも力みがない。
スクエアスタンスでトップを肩の高さに作り素手で細身のバットのグリップを握り込む。スイングは速く強い。
前年2年生の甲子園でも4番に座り本塁打を記録。
中学から注目を浴びた野球エリートは高校通算82本塁打、予選でも4本のアーチを架け好調だ。

〝100万馬力の超高校級投手〟と〝エリート天才打者〟と対決の構図を私は描いた。

【1打席目】 0―0 1回裏2死三塁
<1球目>内角高め ストライク
<2球目>内角高め ボール
<3球目>ど真ん中 レフトフライ(振り遅れ)

最初の対決は、伊良部の立ち上がり2死走者三塁のピンチだ。初球はどこに行くか? 走者を正面にセットポジション。
1球目、全力で内角やや高めにズドン! 鈴木健は一歩後ずさりした。判定はストライク。
いきなり突っ込んだ。ネット裏から『ウォーっ!』と歓声が上がった。
スピード表示のない時代だったがファンは空気で感じた。『速い!』と。

続く2球目もストレート、内角高め、ボール。明らかなボールにピクリと反応した。
カウント1―1となり3球目、またストレート「あっ、ど真ん中!」その瞬間バットは出ていた。
少し差し込まれた。レフトの凡フライだ! いや⁉ 予想よりはるかに距離が出た。

外野はあらかじめ深めのシフト。ラッキーゾーンのフェンス直前で佐伯貴弘(元・横浜など)がつかんだ。
わずか3球の勝負に手に汗握った。伊良部のストレート押し、鈴木健の差し込まれての飛距離。
「このあとどうなる?」と胸が躍った。

【2打席目】 0―0 4回裏先頭
<1球目>真ん中高め ボール
<2球目>内角高め ファウル(振り遅れ)
<3球目>真ん中高め ボール
<4球目>内角高め サードゴロ(振り遅れ)

この勝負は伊良部のストレート押しだ。初球高め、ボール。2球目は高めを打ち振り遅れのファウル。
3球目は高めボール。そして4球目、真ん中を打った! 三塁線のゴロ、振り遅れたが打球は速かった。
サードの反応が良かったが抜けていれば長打だった。
2打席7球ストレートで伊良部が抑えているが鈴木健は振り遅れながら打球は悪くない。

【3打席目】 0―1 6回裏無死一塁
<1球目>外角高め ボール
<2球目>真ん中低め ストライク
<3球目>内角低め ボール
<4球目>外角高め ファウル(振り遅れ)
<5球目>真ん中高め ボール
<6球目>真ん中高め ファウル(振り遅れ)
<7球目>外角高め 空振り三振

3打席目は6回裏、伊良部は5回まで5安打1失点。
自慢のストレートを軸に斜めに曲がるカーブをアクセントにしていたが鈴木健には投じていない。
この打席はカーブに注目した。1球目ストレートがボール。2球目、ストレートでストライク。

「さあここは使い時だ」と思ったが3球目もストレートでボール。走者を置いてカウント2―1。
「これでもうカーブはないな」。4球目ストレート、打ってファウル、振り遅れ。
カウント2―2、5球目ボール、6球目ファウル、案の定ストレートで押した。

そして7球目、渾身(こんしん)のストレートがアウトハイへ、鈴木健のバットが鋭く出た! 
しかしボールの下をくぐり空振り三振! このラストボールにはネット裏で爆発的な拍手が起きた。
手応え十分の伊良部は鈴木健に対しもうストレートしかないと確信した。

【4打席目】 3―1 8回裏無死一塁
<1球目>真ん中高め ファウル(振り遅れ)
<2球目>外角低め ボール
<3球目>外角高め ファウル(振り遅れ)
<4球目>内角低め センター前ゴロのヒット

ここまで3打数0安打と伊良部が抑えてきた。
追う浦和学院の8回裏先頭が出塁し、鈴木健は振り遅れが続いている中でどう対応するか? 
チームとしては『ミートポイントを前にバットを短くするなど工夫する』ということだった。
4打席目で鈴木健が何か変えるか? バットはグリップ一杯。
フルスイングの態勢だ。タイミングを取る右足の動きは小さくしているようだが、最初からだ。

勝負が始まった。1球目真ん中ストレート振り遅れのファウル。球威は全く落ちていない。
2球目はボール。3球目、外角高めまた振り遅れてファウル。何も変えていない。
そして4球目、この対決18球目のストレート、内角低めのいいコース、鈴木健のバットが一閃した。
ついに捉えた。鋭いゴロが二遊間を割ってセンター前に。ようやく遅れずに捉えた意地の一打だった…。

伊良部はやはり特別だと思う。チームを勝利に導くためにカーブを交え粘りの投球を展開した。
一方で鈴木健とはストレート一本の力の対決を挑んでいた。
相手も絞って待っているのにねじ伏せた。ほとんど振り遅れだ。打者が一番いやな感触だ。
天才打者鈴木健でもヒットにするのに18球もかかった。
現在は変化球の使い方がポイントとなる時代だが、この全球ストレート勝負の伊良部の姿は
私の中に永遠に残る至高の別世界だ。 

■小野塚康之(おのづか・やすゆき)
実況家。1957年5月23日、東京都生まれ。
80年学習院大を卒業し、NHKに入局。以降41年間、主に高校野球、プロ野球の実況を担当する名物アナウンサー。
2019年からフリー。現在はDAZN、日テレジータス、JSPORTSなどで野球中継に携わる。

【1987年夏二回戦】
尽誠学園000 000 032 5
浦和学院000 010 010 2

伊良部秀輝対鈴木健
2021年12月6日 zakzak掲載

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
子どもが相手の「未知の世界」で奮闘する今成亮太さん(元阪神タイガース)

◆ 野球とバスケの代表戦を熱論!

 2018年に惜しまれつつ現役を引退された今成亮太さん。
日本ハムからトレードで加入した阪神ではキャッチャーと内外野が守れるユーティリティー性の高さと
左打席から繰り出す巧みなバッティングで存在感を発揮。
また、オフのファン感謝デーでは毎年先輩選手のモノマネを披露して盛り上げるなど、
成績以上にファンに愛された選手でもありました。
そんな今成さんに少年時代からこれまで、そしてセカンドキャリアについてお話を聞きました。

◆ ルールを知らない子どもに野球の楽しさを伝える難しさ

――2018年に惜しまれつつ引退をされた今成さんですが、現在はどんなお仕事、ご活動をされているのでしょうか?

今成:阪神タイガースのアカデミーコーチとして活動をさせていただきつつ、タレント業をやらせていただいたり、
自分で会社を作って「ダイアモンド アライアンス スポーツアカデミー」の
フランチャイズオーナーという形で兵庫県西宮市で子どもたちに野球を教えたりしています。

――2018年のオフにはトライアウトも受けられていましたが、
阪神からアカデミーコーチ就任の依頼があったときはどんなお気持ちでしたか?

今成:お声がけを頂いた時はまだ現役でプレーをしたいという気持ちがありましたね。

――他球団から獲得の声もあったと伺いました。

今成:「ドラフトが終わってみないと分からないけど」という前提でしたが、いくつかの球団から声をかけて頂きました。
その後、声はかかりませんでしたが。独立リーグや社会人野球からもお話はあったのですが、
自分の中ではNPBから声がかからなければ区切りをつけようと、セカンドキャリアに向けてやっていこうと、
そういったことをマネージメント会社とも話をしていました。
ですので、その時点でアカデミーコーチ就任ということに迷いはなかったですね。

――コーチ、スカウト、スコアラーなどのように現場に近い形で球団に残る選手が多いなかで、
「アカデミーコーチ」というのはどのように受け止めましたか?

今成:当時はアカデミーの活動自体も1、2年くらいしかない時期でしたので、正直いって
やってみないと分からない部分もありました。でもアカデミーは「振興部」という部署の中にあるのですが、
「子ども達に野球を教えてくれ、野球振興に努めてくれ」というお話をされて、
なるほどなという感じですんなりと受け止めました。

――子ども達を実際に指導されてみて、苦労されたことなどはありますか?

今成:子ども達が野球のルールを知らない、ボールを捕れない、打てないというところからの
スタートだったことに苦労しましたね。
僕らがプロでやってきた専門的な技術を教える、そういう場所なのかなと思っていたのですが、
そうではなく、まず子ども達が野球を楽しむところから教えなければいけませんでした。
打ったら3塁に走ってしまうような子ども達にどうやって野球の楽しさを伝えればいいのか、
そういったところで結構悩みもしましたね。

――「ダイアモンド アライアンス スポーツアカデミー」ではオーナーという立場ですが、どんな仕事をされているのですか?

今成:自分が現場に立つことはあまりないのですが、スタッフの管理、マネジメント、そして会社の経営ですよね。
未知なる世界に飛び込んだ感じですけど(笑)。

――直接子ども達と接するスタッフに対しては日頃どんなことを指導されていますか?

今成:まずは子ども達を怪我させない、安全第一ですよね。あとは子ども目線に立ってあげるということですね。
自分が分かっていても子どもに伝わらないと意味がないですから。
子どもが理解できるようにかみ砕いて伝えるということをスタッフには話しています。

◆ 考えながら一人で練習していた少年時代

――今は子どもに野球を教える立場の今成さんですが、ご自身が野球を始めたのは何歳の時ですか?

今成:小さい頃の写真を見ると3歳くらいにはもうボールとバットを持っていたので、
物心ついたときからやっていましたね(笑)。
父親がプロ野球のスカウトをやっていて、3つ上の兄もやっていましたから、
自然と野球が環境の中にある、野球一家で育ちましたからね。

――チームに所属されたのは?

今成:幼稚園のときに地元の少年野球チームに入りました。本当は1年生からじゃないと入れないんですけど、
兄について練習にも行ったりしていたので特別に入れてもらって。
その頃はライトを守っていて、レギュラーになってからはピッチャーとショートを守っていました。

――少年野球時代を振り返ってみて、当時の経験などで今に生きていることなどはありますか?

今成:どうやったら速いボールを投げられるかなとか、色んな選手の投げ方を真似してみて
「この投げ方は球速が上がる」とか、壁当ての時に握りを変えて投げてみたりとか、
石を打ったりして「こうやって打ったらこういう打球が飛ぶんだ」とか、
自分を実験台にしながら試したりとか、そんな風に自分で色々と考えながら練習をしていたことですね。

――当時からそこまで考えて一人で練習ができたのはなぜだと思いますか?

今成:上手くなりたいという思いがあったからですね。あとはやっぱり野球が好きだったからでしょうね。

◆ ゴールや目標が見えない練習がすごく嫌い

――野球大好き少年だった今成さんですが、あの練習は嫌だったとか、
あの練習は意味があったのか? とか思い出されるものはありますか?

今成:少年時代というか、高校時代の「死ぬまで走っておけ!」「死ぬまでバット振っとけ!」とかですね(笑)。

――高校時代というと浦和学院時代の?

今成:あんまり高校時代の話をしちゃうと「営業妨害するな!」って森監督から電話がかかってくるんですよ(笑)。

――あくまでも今成さんの高校時代のお話ということで(笑)。今はそんなことはないと思いますけども。

今成:何のためにこの練習をやっているのか? というのが明確だと頑張れるんですけど、
根拠のない練習がすごく嫌いだったんです。ゴールや目標が見えない練習も嫌いでしたね。
例えば「10kmを何分以内に走れ!」だったら頑張れるんですけど、
「俺がいいというまで走れ」みたいな練習がすごく嫌いで(笑)。

――そういった経験がアカデミーやスクールで生かされたりしているのですか?

今成:そうですね。子ども達にその練習の目的意識をしっかり持たせてやらせたいなと思っていますので、
当時の経験がそういうところに繋がっていると思いますね。


◆ プロで役立った、中学時代のサッカー経験

――今成さんといえばユーティリティー性の高さがセールスポイントだったと思いますが、
キャッチャー、外野なども守りつつサードの守備のうまさに定評がありましたね。

今成:キャッチャーでプロに入りましたが本格的にやったのは高校からなんです。
それまではピッチャーと内野でしたから、そもそも内野の経験がベースとしてありました。
あとは当時の高代コーチに言わせると、脚力があまりなかったことが良かったみたいです。

――脚力がないのがよかった?

今成:例えば良い二遊間の選手って脚力がありすぎてサードが守れないらしいんですね。
どちらかというと反応が鈍感な方がサードに向いていると言われました。ショートは打者が打つ前にボールの軌道や
バットの角度などを見て動き始めたりするのですが、サードは打者との距離が近いので打つ前に動いてしまうと
逆を突かれたときに反応できないんです。打球が飛んできてから反応するのが大事だと。
その中でキャッチャーとして速いボールを捕る、下から捕るということをずっとやってきていましたし、
スローイングにも自信を持っていましたので、そういった部分がサードにマッチしたのかなと思っています。

――子どもの頃から色んなポジションを守っていた経験も大きかったわけですね。

今成:そうですね。あとは中学時代に週末はシニアで野球をやりつつ平日は部活でサッカーをやっていたことも
大きかったなと思います。足を細かく使うことがアジリティ系のトレーニングになって内野の守備にも生きた気がしますね。
あと、今にして良かったと思うのは無意識でずっと左足で蹴っていたことですね。
利き足と違う足を使うことでそれも脳への良い刺激になっていたと思うんですよね。

――なぜ左足で蹴っていたのですか?

今成:当時ブラジル代表に左利きのリヴァウドっていうすごい選手がいて、単純に左で蹴るのが格好良い、
あとちょっとモテたいなと思っただけなんですけどね(笑)。

◆ 目標から逆算して選んだ浦和学院

――埼玉県内外にも強い高校が多くある中で浦和学院を選んだ理由は?

今成:色んな高校から声をかけて頂いたんですけど、僕の中ではやっぱりプロというのを意識していて、
まず甲子園に出ることが自分をアピールできる一番の場所だという思いがありました。
その中で当時の浦和学院は3年に2回は甲子園に出ているというデータがあって甲子園に出る確率が高いこと、
自分が1年生から試合に出やすいこと、そして上級生にプロ注目選手がいること、それが大きかったですね。

――「上級生にプロ注目選手がいる」ことを重視されたのは?

今成:そこで1年からレギュラーを取ることができれば、その先輩を見に来た
プロのスカウトの方に見てもらえるのではないかと考えたんです。

――それはスカウトをされていたお父様の助言ですか?

今成:父親は野球に関しては全く何も言わなかったですね。プロアマ問題もあったと思うのですが。
唯一覚えているのは小さい頃、家の中で正座したままスローイング練習をさせられたことですね。
母親の嫁入り道具の棚に向かって投げさせられていました。母親にお願いだから止めてくれって言われましたけど(笑)。

――プロに行くことから逆算をして浦和学院を選んだんですね。

今成:実はそれだけでもないんです。3つ上の兄も、結局行かなかったんですけど、高校進学の際に
浦和学院の森監督に熱心に誘われていまして、そんなことで僕が小6の時から森監督とは面識があったんです。
当時大竹寛さん(現巨人)を擁して2期連続埼玉県大会の決勝で浦和学院が負けていて監督さんが落ち込んでいたんですけど、
そんなときに「こんなこともありますよ、つぎつぎ」と森監督の頭をポンポン叩いていたんですよ、僕(笑)。

――(笑)。

今成:それで「お前は絶対にウチに来い!」って言って頂いて。そのことを森監督も覚えていて、
僕が中三の時に「あの時のことを覚えているか? 俺を甲子園に連れて行ってくれ」と言われて、
そういった縁もあったんですよね。

――そして森監督に鍛えられ、見事にプロ入りの夢を叶えられたわけですね。
最後になりますが、全国の野球少年少女達に向けて一言お願いします。

今成:野球を楽しむことが成長に繋がると思っています。ですので、まずは野球を好きになって欲しいですね。
その中で「もっと上手くなりたい」とか「どうしたらプロになれるのかな?」といった思いが出てきたら
ぜひ「ダイアモンドアライアンススポーツアカデミー」に来てほしいと思います。
僕たちは「教える」というよりも、その思いをサポートする、子ども達と一緒に成長していきたいと
思っていますので、いつでも気兼ねなく遊びに来て欲しいと思います。

▼ 今成亮太
1987年埼玉県富士見市出身。
浦和学院高から2005年の高校生ドラフト4巡目で日本ハムへと入団し、2012年からは阪神でプレー。
内野の複数ポジションだけでなく外野、さらには捕手もこなすことができるユーティリティ性で多くのチャンスを掴んだ。
2018年オフに現役引退し、現在は阪神が運営する「タイガースアカデミー ベースボールスクール」のコーチを務めながら、
「ダイアモンド アライアンス スポーツアカデミー」のフランチャイズオーナーとして兵庫県西宮市でスクールを運営している。

2021年6月15日 BASEBALLKING掲載

坂元弥太郎 21期 現:野球スクール指導者
【あの球児は今】1試合19奪三振、浦和学院・坂元弥太郎の新たな道


日刊スポーツの記者が、懐かしい球児たちの今と昔に迫る不定期連載「あの球児は今」。
今回は、浦和学院で00年甲子園で56年ぶりとなるタイ記録(当時)となる
1試合19奪三振をマークした坂元弥太郎さん(38)です。
同年ドラフト4位でヤクルトに入団。日本ハム、横浜、西武にトレードで移籍し、13年に現役引退。
サラリーマンを経て、現在は埼玉の野球スクール「Yataro スポーツベース」で指導しています。

◇ ◇ ◇ ◇

今日は、いつもより三振が多いかも―。その積み重ねが、当時の大会タイ記録となる19奪三振になった。
3年夏、初めての甲子園で、1回戦八幡商戦。失策から1失点し、坂元さんは「バットに当てさせたらダメだ」と必死だった。
7回2死からはすべて三振。持ち球は、直球とスライダーのみ。握り方を少し変え、抜いて投げたり、
縦気味に投げたり、工夫したスライダーで19個のうち13個の三振を奪った。
「試合後、ベンチから引きあげる時に(浦和学院の)森監督から『記録らしいぞ』と聞きましたが、
何の記録か分からなかったです」と振り返る。

強豪浦和学院で1年夏からベンチ入りし、2年夏からは背番号1を背負った。
プロ注目と言われていたが、甲子園の前に県大会で自信を手にしたことが大きかったという。
決勝の春日部共栄戦。延長10回を1人で投げ抜き、171球の死闘を制して甲子園出場を決めた。
今でも名勝負として語り継がれている1戦で、メンタルの強さも、体の強さも手応えがあった。

父から、ずっと「プロ野球選手になる」と言われて育った。
4人兄弟の次男で、高校入学直前に母を亡くした。家計は苦しかった。
寮には入らず、自宅から自転車で片道1時間20分の通学。アップシューズは履きすぎてつま先から破れ、
底が取れかかっても「買ってほしい」と父には言えなかった。
見かねた森監督が、部室にあったスニーカーをくれたこともあった。
「プロ野球選手になって、家族を支える」のが夢ではなく、当たり前。厳しい練習も、当然だった。

プロ入り後も思い出す森監督からの言葉がある。「しょせん、弥太郎」。
調子に乗っている時は、自分をいさめるように聞こえる。しかし苦しんでいる時には、気持ちを切り替えて前を向ける言葉になる。
「受け取り方によって、言葉は変わると思いました」。子どもに野球を教える今も、言葉は意識している。

日本ハム時代の自主トレで、「プロで長く活躍している秘訣(ひけつ)を学びたい」と
横浜(当時)の工藤公康現ソフトバンク監督に弟子入りした。
将来について語り合う中で「すごいのは、プロ野球のコーチではない。うまくない子どもを、
プロに育てられる人なのではないか」という話が印象に残った。
13年間のプロ生活を終え、スーツの営業を1年間経験した後で、野球スクールのコーチに転身した。

現在は小学生から中学生までの約50人を指導する。
「もっと出来る」「最後までやり切ろう」など厳しい声が多い。褒めて伸ばすのではなく、限界は決めずに成長を促す方針。
「教えるタイミングがあるし、あえて黙る時もある。ただ褒めるのでは意味がないと思っていて、
それが出来たら次はもっとレベルの高い話をします」。
卒業生は関東を中心に強豪校に進学し、大会で活躍している。
「高校の試合を見に行くのが、楽しい」と言う。将来のトップ選手の育成という新たな道を、突き進んでいる。

2021年6月14日 日刊スポーツ ネット配信

鈴木健 8期
東尾修の「温情」がカムバック賞に導いた!?あの鈴木健の動画回顧が感動モノ


元プロ野球選手・鈴木健氏といえば、浦和学院高校時代には、1986年、87年の全国選手権に連続出場し、
高校通算83本塁打は、清原和博氏の64本をも凌ぐ、当時の日本最多記録であった。

87年のドラフト会議で1位指名を受けて西武ライオンズに入団。
95年からは5年連続で3ケタ安打を放つなどの活躍を見せたが、2002年に転機が訪れた。
伊原春樹氏が新監督に就任し、シーズン終了後にはヤクルトスワローズに金銭トレードとなったのだ。

そんな鈴木氏が、元プロ野球選手・大久保博元氏のYouTubeチャンネル〈デーブ大久保チャンネル〉に出演。
02年の開幕戦では2安打の活躍を見せるも、翌日の試合ではベンチスタートなど、
伊原監督とのソリが合わなかったのであろう胸の内を告白するも、“ヤクルトに移籍できて感謝”だったと明かしている。

5月8日付けの〈第五話 金銭トレードの真相(後半)〉とのタイトルで公開された投稿回でのことだが、
鈴木氏は、「セ・リーグに行かしてもらって、セ・リーグの野球も見れたし、いい思いをさせてもらったっていうのも、
ずっとライオンズにいたら多分味わえなかっただろうし」と振り返った。
巨人戦は地上波で放送されていた時代。西武で4番を打っている時よりも知名度は上がったとも口にしており、
それが発奮材料になったのか、03年は鈴木氏にとってプロ野球人生最高の153安打を放ち、
打率は「.317」の大活躍で、カムバック賞を受賞した。

この動画の中では、鈴木氏のヤクルト移籍の口利きをしたのは、01年まで西武で監督を務めた東尾修氏であったことも明かされている。
前年まで監督を務めた東尾氏の「温情」が鈴木氏のカムバック賞を呼び込んだのであろう。感動的な話が拝聴できた。

2021年5月14日 BIGLOBEニュース掲載

石井義人 17期
「やりがいはある、でも…」
運送業者となった交流戦初代“首位打者”が届けたいもの


★横浜、西武、巨人で活躍した石井義人氏のプロ18年間を振り返る
運転していると野球場が視界に入ってくる。新しい仕事場からはNPB球団の本拠地のライトが見える。
「戻りたいな、と思うことはありますよ」……。横浜、西武、巨人で活躍した石井義人氏は今、千葉の総合物流企業に勤務している。

荷物を積んだトラックのハンドルを握る。
段ボールの中身は大型量販店へ届ける衣類や、企業が使うオフィス用品などが詰まっている。
守備や打撃同様、下半身が大事になってくる業務だ。
ファンにヒットで感動を届けたように、今は“お客様”に満足と品質の高い商品を届けている。

「荷物が重いので野球と同じ体力勝負です。トラックに積んで、運ぶという作業を1日で14、15回くらい。
体力つきますよ。上半身も、下半身も強くなる。まだ(足が)太くなったりしています」

石井氏は埼玉の名門・浦和学院で1年夏から甲子園に3度出場。高校日本代表にも選ばれた。
1996年のドラフト会議で横浜ベイスターズ(現DeNA)にドラフト4位で入団。その後、西武、巨人と渡り歩き、2014年に現役引退。
その後はルートインBCリーグの埼玉武蔵や山形・佐藤病院の軟式野球チーム、女子プロ野球で指導者を務めた。
その後、知人の紹介で約2年前から株式会社SITに勤務をしている。

「やりがいを感じながら、仕事をしています。でも球場や少年たちが野球をやっているのを見ると、
(当時に)戻りたいなと思う時はありますよ」

物流の世界で高いサービスを提供している同社で汗を流すが、野球のことが頭から離れた日はない。
所属した球団、企業で野球を通じて人生を学んできたからだった。

プロ1年目の1997年。高卒ルーキーだった石井氏はレベルの高さを痛感した。
1年目のベイスターズは2位、翌1998年はマシンガン打線を擁して、日本一に輝いた。

「このチーム……すごいと思いましたね。高卒とはいえ、この戦力の中で1軍にいるためにどうしたらいいんだろうと考えてました」

★自分が指導者になったら「イップスは治せる」
同じ内野手では守備の名手・進藤達哉氏(現DeNA編成)、三拍子揃った同じ左打者、石井琢朗(現巨人コーチ)がいた。
他にも好選手が揃っていた。

「進藤さんは守備だけでなく、状況に応じたバッティングができる。
1軍で同じ姓の石井(琢)さんは自分の目標でもありました。近づきたいなとの思いでやっていましたね」

打撃を売りにプロの門を叩いた。高校時代は感じていなかったが、2人を見ていたら守備への自信は無くなっていった。
レベルが違いすぎた。そして、イップスになってしまった。ボールを投げる際に力の加減がわからなくなった。

ファーム暮らしが続いた2年目、3年目。当時、2軍監督だった日野茂氏が指導してくれた恩義は忘れない。
日々のアドバイスで克服することができた。

「(リリースの時に)小指を上にした方がいいとか、暴投してもいいから思い切り投げろ、とかそういう言葉をもらいました。
だんだん、相手が捕りやすいボールになっていく。今、自分が指導者になることができたら、イップスは治せると思います。
軟式の監督やっている時も克服した選手がいましたね」

2002年オフの西武へのトレードが大きかった。広角に打てる左打者がほしいという西武の希望が石井氏だった。
移籍1年目は気負った部分や腰を痛める怪我もあったが、2年目の2004年、持ち味を発揮した。規定打席不足ながらも打率.304をマークした。
ダイエーとのプレーオフ(当時)でも代打で登場し、新垣渚投手から二塁打を放つなど、リーグ優勝に貢献した。

「西武の2年目以降、自分らしくできるようになった。2004年の(プレーオフ)セカンドステージ第5戦の
新垣投手から代打でレフトオーバーは良い思い出です。日本シリーズに出場して、日本一。思い出に残っています」

自分らしくとは、バッティングに重きを置くことだった。パ・リーグにはDH制もある。守備は多めに見てもらい、長所を伸ばしていった。

「DHでいいじゃないかと思い始めるようになったのが大きかったです。
(当時)渡辺久信監督さんは買ってくれていたんじゃないかなと思います」

★交流戦では大活躍、セ・リーグ投手を打ちまくる
2005年は規定打席を超える活躍を見せ、初年度となった交流戦は打率4割をマークし初の“首位打者”を獲得した。

「久しぶりにセの球団と対戦できたので楽しかったですね。この年は主にセカンドを守ることが多かったんですが、必死でした。
守備が下手だったので、守れない分、打つ方でがんばりました」

西武ではライバルはいつも外国人選手だった。
フェルナンデスやボカチカといったパワーのある打者との戦いだったが、石井氏は技術で勝負し、出場機会を得ていった。

「力で負けるけど、技術の細かさは日本人選手が上だと思っていました。
パワーで負けても、ミート力、確実性は勝てるのではないかなと思っていました」

ミート力は中学までやっていた軟式野球の練習で身についたという。
その感覚が指導者になっても残っていたため、埼玉武蔵でコーチをしていた頃は選手に軟式ボールを打たせて、
ミート力を向上させたこともあった。

石井氏は2011年に西武を戦力外となるも、巨人が獲得。代打の切り札として活躍した。
2012年のクライマックスシリーズ・ファイナルステージ第5戦ではサヨナラ安打を放ち、シリーズMVPに選ばれた。

今、ふと思う時がある。

「野球しかやっていなかったので、仕事があるだけでもありがたいです。ただ、まだどこかで野球界に戻りたい、
貢献したいなという気持ちもあります。野球の指導の現場の今と昔は変わってきていると思います。
スキルも上げていきたいなと思っています」

運送業の仕事をしながらも、いつか、子供たちに野球の技術を送り届けたいと願っている。

2021年3月16日 Full-Count掲載

石井義人 17期
怪我をしても「無理をしない」勇気を
甲子園3度出場の元プロ戦士が伝えたい事


★「天才」と称された男、石井義人氏は学生野球指導者への夢を抱く
横浜、西武、巨人で活躍した左の巧打者・石井義人氏がこのたび学生野球資格を回復した。
今後、学生野球の指導者を目指していく。石井氏は埼玉・浦和学院で1年夏から甲子園に出場。
今もマスターズ甲子園で同校のユニホームで戦うなど、高校野球愛が深い。
名門で学んだ2年半の中で、今の球児に伝えたい思いを聞いた。

高校時代から打撃センスは光っていた。
プロ入り後もその柔らかいバッティング技術は「天才的」と称されたほど。
父の教えで野球をスタート。初めてバットを持ったのは3歳の時。自然と左打者の構えをしていた。

毎日のように自宅でスイングをする石井少年は浦和学院に進み、入学直後の1年春の関東大会からベンチ入り。
2回戦に代打で出場するといきなり本塁打を放つ離れ技を演じた。夏の甲子園でもベンチ入り。
1回戦の姫路工(兵庫)戦。2点ビハインドの9回に代打で出場し、中越え二塁打を放った。
この一打が号砲となり、逆転勝利を飾るなど、順風満帆な高校野球生活のスタートだった。

しかし、1年秋の県大会後に右膝を痛め、手術を受けることになった。チームを離れてのリハビリが始まった。

「春の大会になんとか間に合わせたかったという思いでリハビリを続けていました。
ただ、膝の痛さに耐えなくてはなりませんでした。辛かったですね。筋肉が戻らない。
ちょっとしたことで膝が“カクッ”となったり、踏ん張っても力が入らない。怖さもありました」

1年での華々しい活躍。将来を嘱望されたが、大きな怪我に見舞われた。
浦和学院には高い技術を持つ選手がたくさん集まっている。
辛さや怖さだけでなく、自分の居場所がなくなるという不安もあった。

「野球を辞めたいという思いもありました。リハビリ中は野球部の練習を見るのが嫌でした。
自分は松葉杖をつき、グラウンドに行くことができない。
野球が大好きだったので、見るとプレーをしたくなる。だから、あえて見ないようにした。
そうすると、自然に気持ちが離れますよね、当然。新しい選手も出て来るし……
『ああ、このまま終わるのかな……』と思ったこともありましたね」

★怪我を未然に防いであげる言葉、怪我をしている時にかけてあげる言葉が重要
帰宅するだけの日々。何もすることができなかった。
自宅で毎日やっていた素振りも父とのティー打撃もできない。やれたことと言えば、自宅で野球中継を見て、
プロの打ち方や野球の勉強、ストレッチやお風呂にしっかりと浸かることくらいだった。

石井氏は結果的に「何もすることができなかった」時期が、その後、大きかったと力説する。

「監督やコーチら周りの方がみんなすごく優しかったんですよね。リハビリもその後の練習も無理なくやらせてもらった。
ランニングメニューを落としてもらったりとか、仲間からは声をかけてもらったりもしました」

無理をしなかったことが回復を早めた。春の県大会に間に合った。

「自分の体を休めるときは休めようという判断も時には必要だと思います。
怪我の種類によってプレーができるもの、できないものがあります。
当時は本人しかわからないことかもしれませんが、今はスポーツ科学や医療の面が進んでいるので、
指導者も理解しなくてはいけないのかなと思います」

レギュラーを渡したくない選手は無理をしてでも練習をすることもある。
一方でプロなど上のレベルを目指していく選手は、無理をしないという判断をする選手もいるかもしれない。
だが、石井氏は指導者の判断が「大切になる」と話す。

「疲れている筋肉は肉離れの危険性をはらんでいます。その見分け方を大人がわかっておいてあげないといけないと感じますね」

プロ3球団で18年間もプレーし、その後はルートインBCリーグ・埼玉武蔵、女子プロ野球、軟式野球チームのコーチも務めた。
現役時代は右膝や腰の怪我と隣合わせの日々。そんな中でもバットで結果を残してきた。

★「自分の経験上『焦ってもしょうがないよ』と言ってあげたい」
「怪我をした時にどういうことができるのか。自分が最近、手首の手術を受けたりもしたので、体のことはある程度勉強しました。
これは自分の経験ですが、腰が痛いから腹筋をするとか、怪我したからこそ、わかったことを今後、伝えていけたらいいなと思います」

怪我で苦しんでいる球児は全国にいる。石井氏が選手に伝えたいことはどんなことだろうか。

「一番は自分の経験上、『焦ってもしょうがないよ』と言ってあげたいですね。
その間にできることを探してやることの方が大事です。対戦相手のビデオを見たり、自分の映像を見て、悪い癖を直していくなど、
見て勉強することを勧めます。復帰した時に、チームに溶け込めるし、試合にも入っていける。
何よりもそれがチームのためにもなりますから」

離脱が長引けば、結果的に自分のポジションを奪われてしまうかもしれない。
石井氏の場合は無事にプロ入りすることができたが「焦って大怪我にしてしまうことが一番いけないし、後悔をする」
「過ごしたその時間は絶対に無駄ではない」と語る。

「レギュラーを取ること、甲子園に出ることが全てではないんです。
大学、進路などを優先に考えていく人生もいいと思います。言いたいことは、怪我を大きくしてほしくないです。
積極的な休養を『もったいない』と思うかもしれないですが、自分には何ができるのか、考える時間にして欲しいですね」

怪我との向き合い方だけでなく、様々なカテゴリーで野球を通じて学んだことを伝えていきたい。
例えば、道具の大切さ、当たり前のようにあるグラウンドも管理をしてくれている方がいること。
感謝の気持ちを忘れずに持っていてもらいたい。

★現在は野球とは離れた物流業界で仕事をしている石井氏
「社会に出た時にも通じる基本的なことも野球にはたくさんあります。
電車の中で携帯電話で通話をしたらいけない。椅子ではないところに座り込んで
喋っているようなことは変えていきたいなと思いますね。そういう子供たちを最近、見かけたので」

今は野球とは離れた物流の業界で仕事をしているが、引退後も埼玉の高校野球を観戦したり、
知人の少年硬式野球チームの指導をお願いされるなど、野球と触れ合っている。
高い打撃技術を噛み砕いて子供たちに伝えられるよう、日々、勉強中だ。

「下半身主導で打つようバッティングを教えていきたいですね。
守備ではボール回し、キャッチボールも丁寧にやることの大切さを伝えたいです。
そういったことをできれば長いスパンで付き添ってあげたいなという思いがあります。
子供達の変化が見たい、部活だったらそれができると思うんです」

元プロ野球選手の中には、母校から指導を頼まれて資格回復をするOBもいる。
今回、回復した139名の中から、すでに指導をスタートさせた人もいる。
石井氏は純粋に「野球の指導者になりたい」という思いを抱き、今回、受講した。
一人の野球人として、伝承していきたい――。そんな気持ちが伝わってきた。

2021年3月13日 Full-Count掲載

松田美咲 37期 現:亜細亜大
2020年度第57回全日本学生室内テニス選手権大会

2月19日~25日
大阪府吹田市 江坂テニスセンター

★女子シングルス
▼1回戦

松田
6-2,3-6,10-6中島(亜細亜大)

▼2回戦
松田
6-0,6-4堤(慶應義塾大)

▼準々決勝
松田
6-2,6-7(4),10-5吉岡(早稲田大)

▼準決勝
松田
6-2,6-4清水(早稲田大)

▼決勝
松田
7-5,6-2平田(慶應義塾大)

松田美咲 優勝!
2020年

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
阪神OBの今成亮太氏がスポーツアカデミー「DASA西宮校」のオーナーに

阪神OBでタイガースアカデミーコーチの今成亮太氏(33)が27日、来年1月4日にオープンする
スポーツアカデミー「DASA西宮校」のオーナーを務めることを明かした。
2006年から日本ハムと阪神で13年間プレー。ファン感に欠かせないエンターテイナーが新たな夢を追う。

「自分が現役を引退してから何か、野球、またスポーツ界に貢献したいと考えていました。
現役時代を振り返って『自分自身がもっとこういうトレーニングをしたかった!』という考えのもと、
スポーツを科学的に、個々に合わせたトレーニングをしていきたいと思っています」

同アカデミーには運動能力アップ、ゴルフ、野球の3コースが設けられている。
今成氏は「プロ野球はもちろんいろいろなスポーツ界を盛り上げていきたい。
日本の枠を越えて世界に羽ばたく未来のスターたちを創造していきたいと思います」と意気込み十分だ。
現在、無料体験予約を受け付けている。

2020年12月28日 デイリースポーツ ネット配信

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
阪神のファン感と言えば今成氏
藤浪に「虎の小栗旬になれ」ファッションで助言

阪神の「ファン感謝デー2020」が5日、オンラインで行われた。球団公式動画配信サービス「虎テレ」で
ライブ配信された同イベントは、阪神OBの“ミスターファン感”今成亮太氏(33=タイガースアカデミーコーチ)が
スーパープロデューサーを務めた。

私服チェックのコーナーでは、木浪、秋山、藤浪の3選手をチェック。

木浪は10万円したというヴァレンティノのスウェットにヘビ柄のスニーカー姿で登場。
秋山はEXILEのATSUSHIに憧れていることを明かし、総額27万円の
全身最新の流行ブランドに身を包み、サングラス姿で現れた。

藤浪は白のTシャツに、元阪神の西田直斗氏が展開するスーツブランド「「Settedieci(セッテディエーチ)」の
黒のジャケット、パンツ姿というシンプルな姿で登場。

今成氏は藤浪から「服は(梅田の)阪急メンズ館で買っています。ふらついている時もあります」の情報や、
趣味は釣り、競馬、ゴルフに加え、最近はアクアリウム、カメラ、キャンプも加わったことを引き出した。

また「ファッションにあんまり興味ないんで」という藤浪に対して「虎の小栗旬になれ」と珍アドバイス。

その後も阪神の選手らのモノマネを取り入れたアドリブカラオケを披露するなど“今成劇場”を展開した。

2020年12月5日 デイリースポーツ ネット配信


【阪神】OBの今成亮太氏
平田勝男2軍監督イジリの「香水」替え歌
「♪別にあなたのおごりじゃないけど」ファン感謝デー

阪神OBの今成亮太氏(33)が5日、スペシャルプロデューサーを務める「ファン感謝デー2020」でユニークな替え歌を披露した。

石井が平井堅の「POP STAR」を歌った後、谷川が瑛人の「香水」を熱唱していると、2番から今成氏が乱入。
メロディーを思い浮かべながら、歌詞をどうぞ!

 谷川よく歌ったね。去年のりんごちゃんを超えたよ。石井ちゃん、ピッチングより歌の方がキレがいいね。

 来年、この調子で1軍定着間違いなし。給料、めちゃ上がったら俺に飯を食べさせてね。

 でもファーム行ったなら、あの人がいるよね。

 無駄に声高い、無駄に癖強い、その名前、平田勝男さん。

 別にあなたのおごりじゃないけど、鳴尾浜の食堂誘われる。

 なぜかチェケラ、チェケラ。チェケラ、チェケラ。あいさつ謎のチェケラ!

 あなたのおごりじゃないけど、いつも球団払いで済ませる。

 なぜかチェケラ、チェケラ。チェケラ、チェケラ。あいさつ謎のチェケラ!

 チェケラ! ありがとう!

熱唱後に今成氏に対し、シャンプーハットのこいでが「チェケラって何なんですか?」と質問。
「僕、平田さんに謎のあいさつで『ナリ(今成氏の愛称)、チェケラ!』って言われるんです。それを歌にしてみました」と説明。
見守った猛虎ナインから爆笑がわき起こっていた。

2020年12月5日 スポーツ報知 ネット配信


阪神OB今成氏がプロデューサーでファン感盛り上げ
阪神OBで「ミスター・ファン感」こと今成亮太氏(33)が、スペシャルプロデューサーとして今年も盛り上げ役で大活躍した。

ちょうネクタイ姿で登場。3選手の私服姿をチェックするコーナーでは、藤浪が大阪・梅田の阪急メンズ館で
よく服を購入している情報を引き出した。ファッションにあまり興味がないという藤浪に対し
「知名度が高いので常に見られている」と忠告し、私服姿で目指すべきは「虎の小栗旬」と珍アドバイスした。
さらに谷川が瑛人の「香水」を熱唱すれば、乱入して2番から歌い、十八番の選手らのものまねも披露するなど、
体を張って画面の向こうのファンに選手の笑顔を届けた。今成氏は現在タイガースアカデミーコーチを務めている。

2020年12月5日 日刊スポーツ ネット配信

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
阪神 虎党待望「ファン感」 12・5オンライン開催
OB今成氏がプロデューサーに就任
阪神は13日、12月5日に「ファン感謝デー2020」をオンラインで開催することを発表した。

当日は球団公式動画サービスの「虎テレ」で12時から約2時間、ライブ配信。
球団OBで“ミスターファン感”として虎党にも認知されている今成亮太氏がスペシャルプロデューサーに就任し、
選手が考案したパフォーマンスの披露や選手同士の対決など普段は見られない虎戦士の素顔を同氏が引き出す。

コロナ禍で異例のシーズンとなったが、毎年恒例のイベント開催は、ファンにとって朗報だ。

2020年11月13日 スポーツニッポン ネット配信

卒業生の活躍 飯田和菜さん 41期 現:専修大

このたび卒業生の嬉しいニュースをお伝えします。

今春卒業した飯田和菜さん(2020年3月卒業 41期生)は、進学先の専修大学にて水泳部に所属。
その活躍ぶりが「ニュース専修の専大スポーツ面」に掲載されました。
以下紹介された記事です。

水泳部 飯田和菜
初のアーティスティックスイミング選手
「表現力磨きたい」


今年度、水泳部に初のアーティスティックスイミング(AS)の選手が誕生した。
高校までチームで活躍していた飯田和菜(文1・浦和学院高)は専大に入学し入部を機にソロの転向。
9月19日の日本学生選手権水泳競技大会AS競技(マーメイドカップ)は15位だったものの、
初出場ながら華麗な演技を披露した。大会を終えての感想や今後の目標を聞いた。

◇ ◇ ◇

-専大での活動は。

専大のプールは水深が十分にある。今年は利用する機会が無かったが、今後は練習に活用し、演技の幅を広げたい。
専大水泳部の一員として競技の面白さを多くの方に伝えていきたい。

-ソロの魅力は。

自分の表現したいことに挑戦できるところ。昨年の日本選手権ではチームでメダルを獲得し、喜びと達成感を味わうことができた。
ソロは自分一人で考えて表現せねばならず、それを点数に結びつけることは簡単ではないが、チームにはない楽しさを感じている。

-大会を終えての感想と今後の目標は。

沈み込みや足技に課題も残ったが、コロナ禍の少ない練習時間のなか、本番をしっかりと泳ぎ切ることができた。
表現力を磨き、今年より良い点数を目指す。

まずはマーメイドカップで10位以内に入ることが目標。
見てくれた方々を引き込む演技ができるように精進する。

浦和学院高校公式サイト・専大スポーツ掲載

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
プロ志望高校生合同練習会
元阪神の今成亮太氏が阪神のユニホーム姿でノック
NPBを希望進路とする高校生の合同練習会が甲子園球場でスタートした。

西日本エリアから77人が参加。フリー打撃の後に行われたシートノックでは元阪神、日本ハムで
現在は阪神アカデミーのコーチを務める今成亮太氏がノッカーを務めた。
今成氏は現役時代の背番号49がついた阪神のユニホーム姿で内外野へノックを打った。

日本学生野球憲章ではプロ関係者が学生へ技術指導することを禁じているため本来ならば実現不可能な光景。

しかし、今回は特例が認められ、現役球団職員がノッカーを務めることになったとみられる。

2020年8月29日 スポーツニッポン ネット配信


元阪神・今成氏が球児へ一肌脱いだ!
虎ユニ姿でノッカー務め「少しでも役に立てたら」
★ノック前には「プロの厳しさを教えてあげますよ!」と“今成節”も炸裂

プロ入りを志望する高校球児がたちがスカウトの前でアピールする「プロ志望高校生合同練習会」が29日、
甲子園球場で行われた。NPBと高野連がタッグを組み、初の試みとなった今回の練習会で“一肌脱いだ”のが
日本ハム、阪神で活躍し現在は阪神のアカデミーコーチを務める今成亮太氏だった。

この日、A班、B班に分かれ行われたシートノックにノッカーとして登場。
現役時代の背番号「49」の阪神ユニホーム姿で球児たちにノックを打ち込んだ。

甲子園で開催ということもあり球団からの要請を受け実現。
ノック前には「プロの厳しさを教えてあげますよ!」と“今成節”も炸裂させたがグラウンドに入ると真剣そのもの。
内外野へきっちりと打ち分けスカウト陣にアピールする“後輩たち”を手助けした。

初日の練習会を終えた今成氏は「プロになりたいと思ってこの場に来ていると思うので1球1球大事に打ちました」
と語り「ライトの子が元気だったのが印象的でした。1人で守っていた子です! センターの子がミスをして、
もう1本と言ったらライト、ライトと声を出していて高校時代の事を思い出しました」と、
甲子園を目指し白球を追った過去の自分と照らし合わせていた。

新型コロナウイルスの感染拡大で春夏の甲子園が中止となり、アピールの場が激減した球児たちを思いやり
「今年は春と夏の甲子園がなかったのでそういった思いというのも感じて少しでも役に立てたらと思い甲子園に来ました。
今後も頑張って欲しいです」とエールを送っていた。

2020年8月29日 Full-Count掲載

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
【阪神】今成亮太氏が物まねでナインを鼓舞
「みなさんこんにちわ~!」ヒーローインタビュアーも
阪神OBで現在はタイガースアカデミーでコーチを務める今成亮太氏(32)が1日、
「ウル虎の夏2020」のイベントの一環でスタメン発表された選手の物まねを披露し、場内を沸かせた。

1番・陽川からアナウンスされると、今成氏もそれに合わせて、大げさすぎるスイングやしぐさで紹介。
最後は司会者のリクエストもあり、2軍調整中の上本の独特のオープンスタンスまでやってみせた。

「アカデミーでコーチをしています。今成亮太と申します。よろしくお願いします。
梅野選手が目の前にいるんですけど、あんまり似ていないと言われました」とマイクパフォーマンスでも拍手を受けた。
1、2日は阪神が勝った場合、お立ち台のヒーローインタビュアーも務める。

2020年8月1日 スポーツ報知 ネット配信

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
“今成節”が復活!?阪神OB・今成氏がヒーローインタビュアーに
阪神は27日、「ウル虎の夏2020」の期間限定で、
「元阪神タイガースの今成亮太氏によるヒーローインタビュー」と
「ファンから募集した質問に答えるヒーローインタビュー」を実施することを発表した。

8月1、2日のDeNA戦は『ウル虎の夏 2020は今成亮太が盛り上げる!』と題して、
現在はタイガースアカデミーコーチを務める阪神OBの今成亮太氏が登場。
当日のスタメン発表やトークショーを行うほか、ヒーローインタビューのインタビュアーを務める。
現役時代は“今成節”や選手モノマネで沸かせた今成氏が、甲子園を盛り上げる。

本人も「なかなかこのようなチャンスを頂くことはないので、ありがたく思っています!
新型コロナウイルスの影響で球場に来られない方もいますので、テレビやパソコンを通して、
ファンの方に楽しんでいただきたいと思います!」と意気込み十分だ。

また8月4~6日の巨人戦(甲子園)では勝利試合後のヒーロー選手への質問をファンから募集。
当日の八回裏から試合終了までに、ヒーロー選手を予想して事前に質問をツイッターで募集。
選手が実際に答える質問内容はヒーローインタビュー中に場内ビジョンに表示される。

この企画は「ファンともっと!」プロジェクトの一環として、ファンから募集したファンサービス企画を
実施するファンプロデュースイベント第2弾。「ヒーローインタビューをもっと楽しくしてほしい」という
多数の意見が集まったことから企画が決まったという。

2020年7月27日 デイリースポーツ ネット配信

清水隆行 12期 現:野球評論家
【セパ順位予想】清水隆行氏は巨人と西武…交流戦中止はセに影響
【セ】〈1〉巨人〈2〉DeNA〈3〉広島〈4〉阪神〈5〉中日〈6〉ヤクルト

【パ】〈1〉西武〈2〉ソフトバンク〈3〉楽天〈4〉オリックス〈5〉日本ハム〈6〉ロッテ

交流戦が中止になった影響はセ・リーグの球団の方が大きい。交流戦はソフトバンクを筆頭にパの強さが目立つ。
逆に言えばここで健闘したセのチームは、パの力を借りて一気にペナントの主導権を握ることが出来た。

開幕から2か月弱で突入する交流戦は、いわば「第二の開幕」。
良くも悪くも序盤の展開をリセットできる舞台だった。それがない今季は、スタートダッシュの失敗を
取り返すチャンスは少ないと見ている。

パのポイントは、やはり「同一カード6連戦」。実はひそかに喜んでいる打者もいるかもしれない。
昨年までなら日程のあやで、リーグに1人か2人しかいない千賀のようなスーパーエースとの対決を強いられることもあったが…。
とにかく異例づくしのシーズン。
個人的には、例年にも増して外国人選手がカギを握るのではと思っている。

2020年6月19日 スポーツ報知 掲載

木塚敦志 16期 現:横浜DeNA投手コーチ
DeNA・木塚コーチ
開幕投手の今永に“仁王立ち”期待のエール
「ゲームを支配できるように」

DeNA・木塚投手コーチが、19日の広島戦で開幕投手を務める今永に「仁王立ち」を期待した。

この日は真夏のような日差しが照りつける横浜スタジアムで練習。
登板2日前の今永はブルペンではなく、球場のマウンドを使って熱のこもった投球練習を行った。

その姿を見守った木塚コーチは「“らしさ”を体いっぱいで表現してもらうということと、あまり細かいことは彼には言いたくない。
とにかくゲームを通して仁王立ちできるように。そういう存在感でゲームを支配できるような投手であればいいと思っている」と熱いエールを送った。

昨季は広島戦で5勝0敗。それでも「もうそこはリセットしていると思う。彼は数字と現状の見極めはしっかり出来る投手」と木塚コーチ。
「着々と頭と体の準備ができつつあると思っている」と6・19での快投を期待していた。

2020年6月17日 スポーツニッポン ネット配信

大角怜司 36期 現:UX新潟テレビ21アナウンサー
UX21大角アナ、浦和学院から法大の野球本格派
UX新潟テレビ21の“ルーキー”大角(おおがく)怜司アナウンサー(23)は
柏崎シニア、浦和学院(埼玉)、法大と野球一筋の学生生活を過ごした本格派。
「熱血アナ」を自認し、県内の熱く頑張る人たちを取り上げていく。

「一生懸命な人たちにたくさん出会って、紹介できるようになりたいです」。
“熱男”ぶりが自然と表に出る。大角アナは23日放送の夕方ニュース番組「スーパーjにいがた」内の企画
「探検Thursday」で、大河津分水の歴史、役割をリポート。初めて自身の取材をスタジオで紹介した。
「カメラの前に立ったら頭の中が真っ白になりました。ここで打たなければ負ける、という場面で打席に立ったような」と苦笑い。
そして「インタビューが難しかった。考えた質問内容だけではだめ。会話を意識しないと」。
“デビュー戦”は収穫もあった。

柏崎シニアでクリーンアップを打った自信を胸に門をたたいた浦和学院では、公式戦ベンチ入り経験は1度もなし。法大でも同じだった。
高校時代の恩師、森士(もり・おさむ)監督(55)の言葉が支えになった。
「スタンドからでも応援でチームを勝たせられるんだ」。
監督自身も高校時代は控え。実感のこもった話に仲間のために尽くすことの価値を感じた。
大学では試合に出られなくても純粋に毎日の練習を楽しんだ。チームメートを支えることがやりがいだった。

スポットライトを浴びていなくても頑張る人たちの尊さを知っている。これからは自分が表に出る立場。見えない努力に光を当てられる。
「元気や笑顔で新潟のためになれるアナウンサーを目指します」。熱量の多さは誰にも負けない。

◆大角怜司(おおがく・れいじ)
1997年(平9)4月19日生まれ、柏崎市出身。柏崎小3年の秋から野球を始める。
柏崎第一中では少年硬式野球の柏崎シニアに所属し、ポジションは投手と三塁手。3年の時に春と夏の全国大会に出場し、夏はベスト16入りした。
浦和学院、法大でも野球を続ける。法大の同期に広島の宇草孔基外野手、千葉ロッテの福田光輝内野手がいる。
178センチ、77キロ。右投げ右打ち。

2020年4月26日 日刊スポーツ掲載

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
元阪神・今成氏「心身ともに戻すのが大変」少年に家の中でできる練習法紹介
タイガースアカデミーベースボールスクールのコーチを務める今成亮太氏(32)が14日、
ABCラジオ「ラジオで虎バン」に生出演。
野球少年に向けて、新聞紙を丸め、粘着テープで巻いて作ったボールをペットボトルに向かって投げるという
指先の感覚を養えるメニューなど家の中でできる練習方法を紹介した。
15日から自主練習が開始となる阪神の選手たちには「ここから戻すまでが大変。肉体的にも精神的にも辛い時期だと思う」と心配した。

2020年4月15日 サンケイスポーツ掲載

清水隆行 12期 現:野球評論家
【巨人】「対応」「修正」を磨き自信をつけろ
清水隆行氏、2軍若手に課題と提言

今週の「ALL巨人」は、野球評論家の清水隆行さん(46)が登場。
現役時代は安打製造機として活躍し、引退後は巨人の打撃コーチを務めた同氏が、18日の2軍練習試合、
ロッテ・巨人戦(ロッテ浦和)で若手野手の打撃をチェックし、課題と提言を行った。

ロッテ浦和で、2軍の練習試合をじっくり見た。
1軍定着を目指す多くの若手野手がスタメンに名を連ねたが、結果はロッテ先発の小島に7回無失点の好投を許した。
散発3安打に抑えられ三振は9個奪われた。
真っすぐに差し込まれ変化球に(体を投手寄りに)出されるというパターンの繰り返しだった。

そんな中でも、直球をしっかり打ち返していたのがベテランの陽岱鋼と、1軍の経験が豊富な石川だ。
陽は2打席目に鋭い当たりでセンター前へ。石川の2打席目の中飛も、直球をしっかり捉えていた。

陽は、おそらく1打席目(遊ゴロ)で真っすぐを「速い」と感じたのだろう。2打席目でどうやって打つか。
「対応」が求められる場面できっちり打った。石川は第1打席のヒットは変化球を二塁手後方へ落としたもの。
直球を“見ていない”状態で第2打席を迎えたが、その直球に「対応」してみせた。

1軍の高いレベルでやるには、ゲームの中で打撃の「対応」「修正」が必要だ。
1打席目の打撃を2打席目、さらに3打席目へと生かす。陽と石川にはそれが見られた。
厳しい意見になるが、多くの若手にはそういった変化が感じられなかった。

例えば、坂本勇人はタイミングが合わなかったら、試合の中で足の上げ方などタイミングの取り方を工夫している。
レベルの高い技術で簡単にはまねできないが、それでも「ちょっと早くタイミング取ろうかな」とか
「バット短く持とうかな」とか「いつもよりちょっと中堅より逆のほうを意識しようかな」とか、やるべきことはあったはずだ。
漠然とした状態で打席に立ち続けていたとしたら得られるものは少ない。

ここからは持論になる。打者として1軍でやっていくための重要なポイントの一つは
「速い真っすぐへの対応を高めて、その真っすぐを打つことに自信をつけること」だと思う。

私が見てきた打者で、「真っすぐは強いけど変化球は全然バットに当たらない」という打者が打席で経験を積むにつれて、
その変化球を見極めたり、泳がされても対応したりするようになるケースがある。
一方「変化球には対応できるが、真っすぐには差し込まれる」という打者は、経験を積んでもなかなか継続して結果が出せず、
1軍に定着できないケースが多かったように思う。

1軍とファームでは、直球のキレも、変化球の精度も格段に違う。
1軍で長くプレーするためにはまずは真っすぐに絶対的な自信を持つこと。
それが第一歩。そういう意味でも、この試合で終始、真っすぐに差し込まれ、
変化球で打ち取られた若手には、いい宿題、課題が出た試合だった。

真っすぐへの対応を高める方法は選手によって異なるし、ここで語りきれるものではない。
ただ、今年の巨人は若手に多くのチャンスが与えられ、1軍もファームも、若手がベテランと接したり、
一緒に練習する機会が例年以上に多い。そういった中でベテラン選手がどんな準備や練習を行っているか。
見たり、聞いたりすれば何かヒントになる可能性があるはずだ。

私の現役時代、練習方法で目に留まったのは落合博満(元中日監督)さん。
フリー打撃は緩いボールを必ず右方向から右中間、センター、左中間に順番に丁寧に打っていた。
松井秀喜も、最初は左中間方向へ打つことから入りライトにガツンと打つのは最後の数球だけ。
小笠原(道大=日本ハム1軍ヘッド兼打撃コーチ)はキャンプ最初の何クールかはショート、サード方向にしか打たない。
メディアのみなさんが「サク越え何本」とか書く時期に我が道を行く練習。
オープン戦の最後の数試合だけ引っ張ってシーズンの準備を整えていた。

私の場合は、打撃の調子が悪くなると右方向にトップスピンのゴロが増えた。
バットが外回りしているのが原因なので、バットを内側から出し、左肘を“入れる”ようにして
左中間方向へ打ち返す練習を大切にしていた。

前述の方たちとは逆に、引っ張ることで打撃を立て直す人もいた。
谷佳知さんは、バットが出てこずボールを捉えきれないときは、基本はセンター返しという中で
ヘッドを走らせるためにあえてレフト線にラインドライブの打球を打っていたという。

若手が突然こうした極端な練習を全体練習の中でやるのは少し難しいだろう。
必要だと思うのなら、全体練習ではなく自主練習の時間にやればいい。

技術向上のヒントは、試合の1打席にも、日頃の練習の中にもある。
それらを丁寧に見つけて吸収して、1軍定着につなげてほしい。

◆清水 隆行(しみず・たかゆき)
1973年10月23日、東京都生まれ。46歳。
浦和学院高、東洋大を経て95年ドラフト3位で巨人入り。
強打の外野手として活躍し、2002年に最多安打(191安打)とベストナイン。
2009年に西武へ移籍し、同年に引退した。通算成績は1485試合、打率2割8分9厘、131本塁打、488打点。
11〜15年は巨人コーチ。18年に「U—15ワールドカップ」の日本代表監督。右投左打。

◆小島 和哉(おじま・かずや)
埼玉県出身の23歳。浦和学院高2年時の13年センバツで全国制覇。
早大では通算22勝を挙げた。18年ドラフト3位でロッテ入団。
キレのあるストレートとスライダー、チェンジアップを武器に1年目に3勝を挙げ、防御率4・31。
2年目の今季はオープン戦で計3回無失点と順調に調整。現在は2軍だが、同学年の岩下と開幕ローテを争っている。
177センチ、85キロ。左投左打。背番号43。年俸1700万円。

2020年3月28日 スポーツ報知 ネット配信
2019年

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
オリックス吉田正尚が元阪神今成氏とトークショー
オリックス吉田正尚外野手(26)が元阪神の今成亮太氏(32)とトークショーに臨む。

12月14日の午後1時半から、大阪市内のホテルバリタワー大阪天王寺で実施。料金税込み)は
大人1万円、子ども5000円。チケットはローソンチケットで発売している。
URLはhttps://l-tike.com/sports/mevent/?mid=494007まで

2019年12月11日 日刊スポーツ ネット配信

石井義人 17期 現:女子プロ野球トップチーム総合コーチ
元巨人の石井義人氏、女子プロ野球の“弟子”に金言
西武、巨人などで16年間プレーし、現在は女子プロ野球リーグの統括コーチを務める石井義人氏(41)が、
埼玉アストライアの加藤優(24)、みなみ(22)と秋リーグ(9月1日開幕)のPRのため
東京・港区の報知新聞社を訪問。先輩プロとしての心得とテクニックを“弟子”たちに授けた。

今年から、4チームある女子プロ野球全体をみて指導する石井コーチ。
同行した選手2人が所属する埼玉は44試合を消化して首位・京都に8・5ゲーム差をつけられている。
今年は天候による日程の変更などでダブルヘッダーも多く、4年目の加藤も
「過去イチで(体力的に)厳しい年。気力で乗り越えた」というほどだ。

3チームが争う秋季リーグの展望を問われると、ベテランが多い京都、中堅の愛知、
若手の埼玉と特色がありながらも実力に差は無いとしつつ「まとめる人間がどれだけ引っ張っていけるか」と分析。
その上で、体力勝負の連戦は、かえってベテランチームの方が有利と語った。

意外な結論に驚く2人を前に「ベテランの方が、どこで抜くか(抜きどころを)分かっているので、
『この試合、ここで抜いていいや』と(体力温存)できる。
若いと(抜きどころがなく)そのまま行くので、(ダブルヘッダーの)2試合目が苦しくなる。
体力の差がある分、配分が違う」と、決して若い埼玉が有利ではないと持論を展開した。

加藤も「私は全部行っちゃうタイプだったんですけれど、確かに今年は(タフなスケジュールに)ラフになったなと思います。
抜くところは抜くようになっているなと」と、年間140試合以上を毎年続けてきた石井コーチの言葉の重みに納得の様子だった。

女子プロ野球リーグは26日、観客動員数が伸びないため来季以降の開催が厳しいとして、新規企業の参入を募集すると発表。
今後の展開に選手には不安が広がっている。“美しすぎる女子野球選手”として知名度もある加藤は、
「私の立場はプレーで見せられるよう自身を地道に磨くことですが、女子プロ野球を知ってもらえるためなら、
(番組や広告など出演の)話があればどんどん出ていきたい」と“宣伝隊志願”を宣言した。

しかし、これにも石井コーチは「選手ができることって、たくさんあるんです。スタッフはこうやって会社訪問くらいしか
できないけれど、選手はヒーローインタビューやこういうメディアの機会で、もっとアピールしないと相手に伝わらない」と苦言。
楽天の新規参入などNPBの激動の再編時を身近に経験して感じたことを、今回の女子プロ野球騒動で思い出し、初めて口にしたのだという。

そして「続けたいという強い気持ちが人を動かす。ファンは本来、(リーグやチーム以上に)一人一人につくものだけど、それが欠けている。
(経営母体がわかさ生活1社だと競争がなく)出来ないこともあると思うけれど、選手・会社どっちもが良い方向に向いていかないと、
スポンサーの協力体制はつかないと思う」と、“外”から見た印象と経験からアドバイス。
できないからと諦めずに何度も挑戦してほしいと力を込めた。

2019年8月30日 スポーツ報知 ネット配信

坂元弥太郎 21期 現:野球スクール指導者
坂元弥太郎さんプロで培った「対応力」教え子に継承

「ただ一生懸命やればいいっていうレベルじゃないんだよ! もっと高いレベルでやろうよ!」と厳しい言葉が飛ぶ。
ここは野球スクール「APベースボールワールド」が練習を行う埼玉県三芳町の室内練習場。
優しく楽しくという一般的な野球スクールとは、イメージが少し違う。

教えているのは、坂元弥太郎さん(37)だ。
浦和学院(埼玉)時代、3年夏の甲子園で19奪三振と当時の大会タイ記録をマーク。
プロに入ってからはヤクルト、日本ハム、横浜(現DeNA)、西武で活躍した。

その坂元さんが、2015年から地元の埼玉で野球スクールを始めた。
現在、幼稚園児から中学3年まで約70人が通う。
指導の根底には「良い選手になってもらうことが最高のおもてなし」という思いがある。

「プロのレベルでやるための意識付けはかなり言っています。どのような意識でその練習をしているのかをわかって
10年やるのとやらないのとでは、すごい差になる。高校までやれば、ある程度にはなるんです。
でもそこからどうかっていうところなんです。小中学生のうちに礎をしっかり作りたいんです」

1スクール10人ほどに分け、ソフトバンクなどプレーした有馬翔さん(29)と2人できめ細かい指導を行う。
まずミニハードル、チューブやタイヤなどを使ったトレーニングで身体を鍛え、
その後にキャッチボールや捕球練習を行い、打撃練習で終わる。
「しっかり足を使いなさい。下と上を連動させて。雑にならない」と捕球から送球の動きについて
身ぶり手ぶりを交えて細かい意識付けをする。
自身も練習に入ってプロのレベルを体感させ、簡単に満足させないように心がけている。

プロ野球という結果が全ての厳しい世界で、4球団を渡り歩いた。
その経験から「対応力が一番大切だと思います。どこに行っても対応できるようになってほしい」と力説する。

この夏の埼玉大会、その「対応力」を見せたスクール卒業生がいる。
準優勝した山村学園で1年生ながら4試合に登板した小泉裕貴投手だ。
「坂元コーチからは技術的な部分はもちろんたくさん教えてもらいましたけど、意識の部分というか
気持ちの運び方とかを学びました」という。スクールで学んだ経験は、高校に入って確かに生きている。

坂元さんは言う。「自分はプロ野球人生が13年でした。でも本当は20年やりたかった。
その後悔は(指導の根底に)あります。あとプロや高校野球から情報を得て勉強もします。心理学や生理学とかも…」。
数々の一流選手とともにプレーした自身の経験に加え、新たな知識も吸収し指導に生かす。
高校野球で活躍すること、プロ野球選手になることだけで終わらず、プロ野球選手で20年活躍する選手を育てるために…。
自身のかなえられなかった夢を教え子に託す。

2019年8月1日 日刊スポーツ掲載

清水隆行 12期
活躍するために持つべき3つの視点とは
前U-15侍ジャパン監督・清水隆行氏(元読売ジャイアンツ)vol.2

読売ジャイアンツと西武ライオンズで現役14年間プレー。
1485試合に出場し、通算打率.2899、最多安打のタイトルにベストナイン選出、チームの優勝に幾度も貢献した華々しい実績。
清水隆行氏の現役時代を知る人なら、間違いなく「一流選手」と言うだろう。だがその裏にあった意外な気持ちと、それに伴う活躍の秘訣。
もし悩みの沼にはまっている高校球児がいるとしたら、清水氏の言葉から救いのヒントが得られるかもしれない。

最終回となる今回は、プロ野球時代に見た「一流選手」の習慣や、昨年のU-15日本代表選手の活躍を振り返っていただいた。

★冷静で客観的な頭脳を保つために
ここまで「考え方を鍛える」方法を述べてきた。しかし、これを実践することは簡単ではない。人間には感情がある。
野球という勝負ごとに真剣に取り組むほど、比例して喜怒哀楽も激しくなるのが自然だ。
そんな状況下で常に頭を冷静に、クリアにしておくことは生半可なことではできない。

「感情を一定に保つというのは、やろうと思ってできることではありません。
僕も若い頃は感情の起伏が激しく、とても見本となるような行動はとれていませんでした。
でも、プロにはお手本となる存在がいましたので」

清水氏がお手本としたのは、ジャイアンツ時代、同じ外野手でレギュラーだった松井秀喜選手と高橋由伸選手。
詳細は著書に譲るが、プレー面でもメンタル面でも、そして野球に向き合う姿勢の面においてもお手本になったという。

「自分が取り入れたのは同じことを続けること。調子がよかろうが悪かろうが、冷静だろうが
興奮していようが、決めたことは必ずやる、と」

清水選手が決めていたのは――これは松井選手も高橋選手も同様だが――試合後にバットを振ることだった。

「ホームだったら東京ドームの室内練習場で、ビジターなら宿泊先のホテルのスイング場で、必ずバットを振ってました。
時間の長短はあっても、振らない、という選択肢はなかった。
単純なことですけど、経験を積むにつれ、とても大事なルーティーンだと思い知らされました。
そう思わせてくれたのは松井秀喜の存在があったからです。彼はずっと振ってましたから」

例えば東京ドームで試合が終わったら、軽く着替えて水分や軽食をとったらそのまま室内練習場へ直行。
そこで黙々とバットを振る。スイング時間は日によって変わる。すっきりしない場合は長くなることもある。

「でも僕が特別だったわけでなく、当時のジャイアンツの選手はみんなやってました。
思い思いに室内練習場に来て、誰もしゃべらずバットの振る音だけが聞こえる時間が続く。
みんな個々のリズムで、終わった選手から『お疲れ様です』『お先です』と言って出ていく。
それが当たり前の環境であったことは、自分にとってとても幸運だったと思います」

この「試合後の素振り」は個々が試合の結果を振り返るたいせつな時間だったのではないか。
また、毎試合後同じ行動を繰り返すことは、自分のメンタルをリセットし、
翌日へフラットな状態で臨む状態を作り上げるルーティーンにもなる。

「当時のジャイアンツの外野手は、僕の他が松井 秀喜と高橋由伸。大スターが2人いるわけです。
ということは、新しい外野手が補強されたら競わされるのは僕になる。正直おもしろくない気持ちになった時もあります。

でも、そこで腐ったとしても心配してくれる人はいません。代わりはいくらでもいるわけで、腐っても損するのは自分だけ。
であれば、自分がやるべきことをするしかない。試合に出る出ないは自分でコントロールできることではありません。
コントロールできるのは結果を出せるように最善の準備をするだけ。
そう考えられるようになってからは、周囲の声などに惑わされることもなくなりましたね」

選手も人間である以上、様々な気持ちが思考に入り込んでくる。
そんな気持ちの波をある程度抑えることが、的確な考え方を持ち続けるには必要になってくる。
とすると、何か自分なりのルーティーンを見つけ、平常心を保つ、もしくは平常心に戻る時間帯を設けることが有効だ。
清水氏はさらりと言うが、プロの世界での周囲の声は想像以上に大きい。
そんな外野の声に惑わされず、自分を保ち、考え続けることができたのは、
お手本を見習いつつ見つけたルーティーンがあったからに他ならない。

★「なぜ」を突き詰め正解は自分で出す
清水氏は2009年に現役引退後、ジャイアンツの打撃コーチを5年間つとめ、
2017~2018年には侍ジャパンU-15の監督もつとめた。
当時U-15日本代表だった選手たちの話になるとパッと顔が明るくなる。

「2018年の第4回WBSC U-15ワールドカップメンバーでいうと、花田旭くん(大阪桐蔭)はセンター、
小畠一心くん(智辯学園)はライトだったのですが、具体的にどうこうではなく、
雰囲気がいい身のこなしをするのが印象に残っています。

畔柳亨丞くん(中京大中京)は右のピッチャーで、チームの中では最もバランスがよく力的には一番上でした。
同じピッチャーでは金井慎之介くん(横浜)も腕が長くておもしろい存在で。

池田陵真くん(大阪桐蔭)は中学野球界のスーパースターで知らない人はいないと聞いていましたし…、
有名といえば鈴木唯斗くん(東邦)はドッジボール界のスーパースターと聞いてました。
たしかにすごいボールを投げるんですよ(笑)。今はまだ中学3年生ですけど、
福原聖矢くん(安仁屋ヤングスピリッツ)は足が速く野球頭がいい。
自分で考えて右方向とかに打てるんです。今後が楽しみな選手ばかりですね」

U-15日本代表では、彼らが持続的に成長していくために、ここまで述べたような「考える野球」を伝えた。

「15歳時点ではまだ理解できていない子がほとんど。それは自分もそうでしたし、仕方がないことで。
でも、15歳時点では日本代表でも今後高校、大学と成長していく上で、考える能力は必要になってきます。
ですから考える習慣がついてほしいな、と」

もし今の自分が指導者として、浦和学院時代の自分に教えることがあるとすれば、やはり「考えて野球をしなさい」と伝えるという。

「これは野球に限ったことではありませんが、漠然としてではなく『なぜ』をいつも考えながら
動くことで考える習慣をつけることがたいせつだと思います。当時の僕が聞き入れるかどうかは疑問ですけど(笑)。
教える側としては、なぜそれをすべきなのか、目的までしっかり伝えたいと思いますね」

話を聞いていて印象的だったのは、「僕の場合は」「他の人はどうかはわからないですけど」という言葉を端々に挟み込んできたことだ。
今回の取材記事は、主に高校球児が読むと予想して、自分が言っていることはヒントにはなっても、
必ずしも正解ではないということを気にしての配慮だったのだろう。指導者としての気配りがそこには見えた。

そして気づいたことがもう一つ。
清水氏は怖さを自覚し、それでも向き合う勇気を持つことでプロでの成功を収めた。
ともすると、怖さと弱さは同義にされかねない。しかし、怖さを認めることは、決して弱さに直結するものではない。
怖さに対して目を背け、逃げることが弱さであって、逆に怖さに対して真正面から向き合うことは強さになる。
その点を自覚できれば、その先に清水氏が至った境地が見えてくるかもしれない。
正解を導き出せるのは自分しかいない、と達観する境地に。

2019年6月15日 高校野球ドットコム掲載

清水隆行 12期
活躍するために持つべき3つの視点とは
前U-15侍ジャパン監督・清水隆行氏(元読売ジャイアンツ)vol.2

読売ジャイアンツと西武ライオンズで現役14年間プレー。
1485試合に出場し、通算打率.289、最多安打のタイトルにベストナイン選出、チームの優勝に幾度も貢献した華々しい実績。
清水隆行氏の現役時代を知る人なら、間違いなく「一流選手」と言うだろう。だがその裏にあった意外な気持ちと、それに伴う活躍の秘訣。
もし悩みの沼にはまっている高校球児がいるとしたら、清水氏の言葉から救いのヒントが得られるかもしれない。

本編では活躍するために必要な要素と、その要素を身に付けるための考え方を紹介していただく。

★的確な「考え方」を身につけるために
「よくプロ野球選手がメディアで話す時に『楽しむ』と言うことがありますが、楽しんでいるように見えても、
それは怖さを知った上での発言なんです。その証拠に、みんな信じられないくらい練習する。なぜかといえば不安だし怖いからです。
直接確認したことはありませんが、みんな、そんな負の気持ちを振り切りたいから練習に励む。
 僕なんかはたとえ試合を決める一打を放ったとしても『やった!』という快感は湧いてきませんでした。
逆に『よかった…』とホッと安堵する気持ちが湧いてきたものです。
辛いように聞こえるかもしれませんが(笑)、それでもやらなければいけないのがプロの世界なので」

毎試合、足を震わせながら打席に立つ。緊張しているのが自分でもわかる。体が硬直している。
力みかえっている。それでも打たなければいけない。緊張を解くことはできない。ではどうするか。

「力を抜こうと思っても抜けない。その時にどう考えるか。
僕の場合は左バッターなので、少なくとも力みがライト方向へ向かないようにだけ心がけていました。
同じ力みでもセンター方向へ向けばいい方向に作用するので。というように、常に緊張状態の中でもどうにかしようと考え、動き続けること。
その経験の蓄積が結果を、数字を残すことにつながります。一番よくないのは『考えない』ことです」

プロの世界ではいかに考え、具体的にプレーに適用するか、が成功するかしないかの分岐点になる、と清水氏は考える。
では、高校球児に当てはめてみる。おそらく何も考えないで練習やプレーをしている選手はいない。
だが重要なのはさらにその先、「考え方」だ。考え方ひとつで、同じ練習メニューでも、その効果はマイナスにもゼロにもプラスにもなる。
的確な考え方を身につけることは簡単ではないが、ヒントとなるポイントを3つ、清水氏が教えてくれた。

★的確な考え方を身につける3つの視点
【1.聞く耳を持つ】

「結果を残しているのであればまだしも、結果が出ていない状況下で周囲の人のアドバイスを聞かないのはよくありません。
なぜアドバイスされるかというと、明らかな問題があるからなわけで。
ただし、言われたことを単純にこなすだけでは考えていることにはならない。
言われたことは、自分の中にある問題を解決するひとつの“例”にすぎないのであって、
決して正解とは限らないということにまず気づきましょう。

そしてたいせつなのは、言われたことをヒントに、問題の原因を自分で探って見つけようとすること。
コーチや監督など、アドバイスをする方も、なるべく選手本人が理解しやすいように、問題の原因を明らかにしてあげた方がいい。
さらに、自分の助言が決して正解ではなく一例を示しているに過ぎないということを丁寧に教えてあげる。
そうすれば間違った方向に進む可能性は少なくなると思います」

珍しくないケースとして、周囲の人からばらばらのアドバイスを受け、
それをそのまま取り入れてみたら混乱が増し、本来の自分を見失ってしまった…ということがある。
そういった迷いに陥らないためには、言われたことをただ受け売りするのではなく、あくまでヒントにとどめて、
自分で解決しようとする姿勢をとることだ。

「ひとつのアドバイスで問題が解決するかどうか、は選手によって違ってきます。
感覚的なものなので、どういうイメージを持てば言われたことができるようになるか、自分で考えてみる。
するといろいろな方法が頭に浮かんでくるはずです。
そうすると、考えただけ頭の中で引き出しが増えることになる。
プロ野球選手よりキャリアが少ない16~18歳の高校球児にとって、『なぜ言われたか』を出発点に考えることは、
引き出しを増やすきっかけとしてとても貴重な経験になります」

【2.アンテナの感度を上げる】
著書にも出てくるが、より的確な考え方を身につけていく上で格好の材料を集めるためには
「アンテナの感度を上げる」ことが重要だと言う。
ここで言う「アンテナ」とは、プレーの中で気になる点を見逃さずにとらえる感覚を指す。

「試合の結果、練習の結果、とにかく“結果”に対して向き合うことでアンテナの感度は上げられます。
なぜその結果になったのか、その原因を考える習慣をつける。最初は試合での結果からスタートしてみるのがいいかもしれません。
たとえばセカンドゴロを打った。ではなぜセカンドに飛んだのか。なぜボテボテになったのか、など、
打球の方向や質の原因を考えてみるんです。
これを突き詰めていくと、ティーバッティングひとつとっても考えるようになる。
どの方向に、どのような打球を打つ、と決めてバットを振ったら思ったような結果が出なかったとします。
そこには体の動かし方やバットの振り方など、いずれかに理由がある。
自分なりに理由を見つけたら、その改善方法を自分なりに考えてみてまた試してみる。
試行錯誤を繰り返すことで考え方は鍛えられていきます」

日々の練習、試合でアンテナの感度を上げることは、非常に疲れる。
しかし、「わずらわしいかもしれないですが、一つ一つの結果を流さず、向き合うことが大事」と清水氏は説く。
「極端なことを言うと、打席での一球の見逃し方にだってヒントが隠されていることがあります。
見送った時に体が突っ込んでいたから、もう少し頭を残して見ようとか。
ファールひとつにしても、自分が思っていた方向と逆方向にファールになったら思っている以上に
バットが出てないから始動を早めてみよう、とか」

プロの一流選手の中には、一打席ごと、一球ごとに考えて修正を加えている人もいる、と清水氏は言う。
逆に考えていない選手は、どの打席でも同じ結果に終わることが多い。 
おそらく、「考えてプレーしろ」と言われた経験は誰にでもあるだろう。しかし、そもそもどう考え出したらいいのか、
とっかかりをつかめていない選手も少なくないのではないだろうか。
そういう時は、まず自分のプレーを振り返ることから始めるのが手っ取り早い。最初は分析が誤ることもあるだろう。
それでも続けていくうちに、分析の精度は高まっていくはずだ。
するとそのうち、自分のプレーだけでなく他人のプレーにもアンテナが張られるようになる。
そのスパイラルにはまれば、アンテナの感度は加速度的に上がっていくことになる。

【3.変わる勇気を持つ】
思ったような結果が出ない時期に「己を貫く」「自分を信じる」ことで状況を改善した、という話も聞く。
しかし清水氏は著者の中で、「結果を出し続けている一流選手は『変わる勇気』を持っている」と言う。

「決して好調でない時に変化を加えたとしても状況がよくなる保証はないし、さらにマイナスになってしまうかもしれない。
プレーを変えるということは先が見えないぶん、リスクが伴いますし怖いものです。
ですが、変えなければ状況も変わらない。そう考えたら変わらざるをえない。
ではどう変わるか。その際に重要になるのが引き出しの多さです」

先に紹介した【1.聞く耳を持つ】、【2.アンテナの感度を上げる】を習慣化していれば頭の中の引き出しは増えていく。
引き出しが多いほど、状況を上向きにする方法も見つけやすい。

「プロ野球選手に比べて高校球児の方がどうしても引き出しの数が少ないぶん、『変わる勇気』を持ちづらいと思います。
引き出しが多いほど、どういう状態になったときにどうすればいいか、ある程度見えますしアレンジできますから。
それは分かりますが、少なくとも試行錯誤だけは続けた方がいいです。
 ただがむしゃらにティーバッティングでバットを振っても、ただ振るだけでは準備運動になってしまう。
迷ったり焦ったりしている時ほど目的を持つ。そこからいろんなことを考えだすはずです。
今振り返れば、自分は細かく言ったら飽きられるほどいろんなティーバッティングを試したものです(笑)」

変わらなければいけないのに頭と体が動かない。
そうして現状に固まってしまっている選手がいたとしたら。まずは自分の頭の中に引き出しを増やすように心がけてみよう。
止まったままでは何事も進まない。
だが、考え方が広がるほど対応は柔軟になっていく、と思えば現状を切り拓くたいせつな一歩を踏み出せるはずだ。

2019年6月12日 高校野球ドットコム掲載

清水隆行 12期
前U-15侍ジャパン監督 清水隆行氏(元読売ジャイアンツ)インタビュー
「怖さ」は「強さ」になる vol.1

読売ジャイアンツと西武ライオンズで現役14年間プレー。
1485試合に出場し、通算打率.289、最多安打のタイトルにベストナイン選出、チームの優勝に幾度も貢献した華々しい実績。
清水隆行氏の現役時代を知る人なら、間違いなく「一流選手」と言うだろう。
だがその裏にあった意外な気持ちと、それに伴う活躍の秘訣。
もし悩みの沼にはまっている高校球児がいるとしたら、清水氏の言葉から救いのヒントが得られるかもしれない。

★「打席では足が震えていた」
浦和学院、東洋大学、読売ジャイアンツ。プロ入り後はルーキーから開幕1軍でレギュラーに。
プロ7年目にはシーズン191安打で最多安打のタイトルを獲得。
清水隆行氏のキャリアを並べてみると「野球エリート」という言葉がぴったりと当てはまる。

しかしその実、本人はずっと「自分は劣っている」と思っていたと言う。

さらに、いつも「怖かった」とも。

「毎試合、最初の打席は足が震える感覚がありました」

現役14年間で出場した試合は1485。
その内、打席に立った全ての試合の第1打席は最後まで足が震えていた――。
プロで残してきた華々しい実績と比べると予想外の告白だった。

「楽しさがあったのはデビューして最初の頃だけです。なぜなら怖いものがなかったから。
高校から大学へ行ってプロへ進んで。東京出身で幼い頃からずっと見てきたジャイアンツへ入団して。
まさかプロへ行けると思っていませんでしたから、その世界でやらせてもらえることに対して最初は楽しみを覚えました。
でもだんだん怖さの方が上回ってきて。

試合に出るようになり、レギュラーになると、失敗することの怖さがだんだん出てくるんです。
結果を出し続けることでしか自分の置かれた状況を守り、さらに地位を向上させることはできませんから。
となると、毎日積み重ねることが必要になる。
その大変さと同時に、もし失った時の怖さが常にありました。他の選手はどうかわかりませんが」

5月31日に発売されたばかりの著書『プロで成功する人しない人』(竹書房)には、
そんな清水氏の決して野球エリートでなく、それでもプロ野球の第一線で活躍し続けてきた秘訣が綴られている。
そこには高校球児にとってもとても気づかされるヒントが散りばめられている。
今回は書籍の内容に即しながら、ご本人の言葉で気づきのヒントを拾い上げてみたい。

★「勝ちたい」より「負けたくない」
話の端々からは、清水氏のリアリストとしての側面が見て取れた。
夢を抱いたら迷わず一直線に突き進む…のではなく、どこか冷静に客観的に自分を分析している自分もいるのだ。
それは浦和学院時代から変わらない。

「甲子園に行けたらいいな、とは思っていましたけど、『絶対に』というほどではありませんでした。
なぜそんな冷めた部分を持っていたかというと、具体的に甲子園に行けるイメージを描けなかったのが一番の理由です。
周囲のよく知るチームが甲子園に行ったこともなかったですし。最もイメージできたのは2年夏に埼玉県予選決勝まで
行った時ですけど、大宮東に2-12で大敗してしまったので、やはりリアルにはイメージできず。
これは性格や環境が影響しているのかわかりませんが、何事に対しても希望と現実の両方の見方を持っていましたね」

だが、そこまで勝利に執着することはなくても、練習で手を抜くことはなかった。なぜなら、生粋の負けず嫌いだったから。

「負けず嫌いでも、ちょっと違うのは『勝ちたい』より『負けたくない』という思いの方が強かったことです。
失敗したくない、最悪の結果だけは出さないようにしよう、という気持ちが根底にあるので、
そのためには与えられた目の前のことに対してはしっかりやらざるを得ない。
さぼりたい気持ちがないわけではなかったですけど、それよりも、さぼったがために結果が出なかったら、
自分の中では消化しきれない後悔が残ってしまう」

当時は強く意識することはなかったという。しかし今振り返ると、なぜ自分が努力を続けてこられたか、わかる。
もちろんいい結果に結びつけばそれに越したことはない。だが練習をしたからといって、理想の結果が保証されるわけではない。
ただ、最悪の結果は避けられるのではないか。少なくとも、やることをやりきっての結果なら納得できるのではないか。
とにかく悪い方向に向かいたくない。その恐怖心が、結果として「質の高い準備をする」原動力となった。

「いろいろなところで劣っている、というのが自分の中にすごくあって。でも結果がどうなるかなんて、自分では決められない。
自分が決められることといったら、できる限り練習して、やれることをやって準備するだけじゃないですか」

著書に詳しいが、高校時代から無意識に続けていた「準備」が奏功したのであろう、
清水氏はその後の大学、プロでチーム内のレギュラー取りのかかる“ここぞ”という勝負所で結果を出し続けることになる。
そして自称「劣った自分」が厳しいプロの世界で成功し続けるために、さらに思考を極限にまで突き詰めることになるのだ。

「先ほども言ったように、怖さもあれば緊張、不安もある。打率3割の好打者といえど、7割は失敗する。
つまり、打席に立てばほどんどが悪い結果に終わる。それが怖い。でもプロとして野球が仕事になった以上、
怖くたって打席に立ち続けなければいけまえん。怖い。でも打たなければいけない。では、どうするか」

重要なのは、「考え方を鍛える」ことだった。

2019年6月10日 高校野球ドットコム掲載

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
今成氏「コーチっていいな」阪神アカデミーで奮闘中
<虎番リポート>
記者が独自の視点で取材する企画「リポート」。
今回は今年からタイガースアカデミーのコーチに就任した、元阪神の今成亮太氏(31)の姿を追いました。
昨季限りで現役を引退。現役時代と変わらない明るさで、子どもたちに野球の楽しさを教えています。

子どもたちの笑い声とともに、今成氏の明るい声が響いた。
「コーチのほう、見て!」。現在は週に5日、タイガースアカデミーで子どもたちに野球の楽しさを教えている。

今成氏 成長を見ていて、すごく楽しい。さっきできなかったことができてるとか。
先週打てなかったのに今週めちゃくちゃ打つぞとか。子どもの成長スピードはすごいなと思う。

西宮市や伊丹市など開催場所は毎日変わる。
たくさんの荷物を乗せたワゴン車から降りると、まずはグラウンドの「設営」。
心得が書かれた垂れ幕を取り付け、子ども用のティー打撃台、防球ネット、ベースと次々に手際よく並べていく。

今成氏 このアカデミーの一番のモットーは、やっぱり楽しく。
そこから野球人口の増加だったり、タイガースのファンになってもらえたら。

幼児クラスは小さなボールを右手と左手に持ち替えたり、ボールと触れ合うことから始まる。
遊びの中に野球が入っていることで、自然と野球に親しみ、好きになってもらうのが目的だ。

今成氏 (教えるのは)難しいよ。こういう風に言ったら分かるかな? って考える。
バッティングでフラフラしちゃう子に、どしっとするんだよと言っても伝わらない。
「コーチのほう見て! ピタッ! 見て見て!」って言ったり(笑い)。
上から出しなさいって言うのを「剣道みたいにえいってやるんだよ」とか
「トンカチとか上から重いもの、ドンって下ろす時、こうやるでしょ」とか。

昨年11月の合同トライアウト後、アカデミーコーチ就任の打診を受けた。
その後もしばらく現役続行を模索していたが、引退を決意し、昨年1月にコーチになった。

今成氏 最初、あまり人に教えるということが好きじゃなかった。
アカデミーのコーチをやることによって、人に伝える楽しさというのも感じたし、コーチっていいなと思えた。

2軍監督を務めていた矢野監督と過ごした1年間も、今成氏にとって大きな財産になった。
戦力外通告を受けた当日、矢野監督から「1年しかやってなかったけど、ありがとう。これからもずっと応援してるからな」と
メッセージが届いた。今年1月の球団年賀式で会った際に報告すると「そうか、よかったな。頑張れよ」と背中を押された。

今成氏 最後の1年間、矢野さんと一緒にできたっていうのは、すごく良かった。
すごく勉強になったし、目標にできるような人だなと思った。
ぶれないし、やっぱり伝え方とか、人に対しての話し方がすごく上手だと思う。

子どもたちの中にはタイガースアカデミーで野球の楽しさを初めて知り、少年野球チームに入る子もいる。
それが一番の目的であり喜びでもある。

今成氏 野球を好きになってくれて、野球を続けるってことだから。一番うれしいことなんじゃないかなと思う。
この中から1人でもプロ野球選手、出来れば阪神タイガースに入ってもらえたらうれしいです。

現役時代と同じ「49」の背番号をつけて、未来のスターを育てていく。

◆タイガースアカデミー・ベースボールスクール
18年4月に開校した阪神OBがコーチの野球教室。
和田豊球団本部付テクニカルアドバイザーが特別顧問を務め、現在コーチは今成氏のほかに
白仁田寛和氏、柴田講平氏、鶴直人氏、若竹竜士氏が在籍。
幼児コースから学年ごとに4コースがあり、今年から野球上級者向けのアドバンスコースが新設された。
15日から追加募集を受け付け中。

◆近年の少年野球人口
日本高野連の調査によると、18年の全国の硬式野球部員数は15万3184人。
14年の17万312人から4年連続で減少している。
日本中学校体育連盟の調査では全国の軟式野球部員数(男子)が、01年の32万1629人から
17年には17万4343人まで減少した。

◆今成亮太(いまなり・りょうた)
1987年(昭62)10月6日生まれ、埼玉・富士見市出身。
浦和学院から05年高校生ドラフト4巡目で日本ハムに入団。
12年4月に若竹竜士との交換トレードで阪神に移籍。昨季限りで現役を引退した。
捕手、内野手、外野手としてプレー。
プロ通算470試合に出場し、1039打数275安打、打率2割6分5厘、6本塁打。右投げ左打ち。

2019年4月16日 日刊スポーツ掲載

榎本達也 18期 現:FC東京コーチ・ブラインドサッカー日本代表
榎本達也「自分も『黄金世代』なんて、これっぽっちも思っていない」
~ザ・黄金世代 日本サッカー伝説の瞬間【12】

1999年、フィリップ・トルシエ監督率いるU-20日本代表がワールドユース選手権(現U-20W杯)で準優勝した。
世界の頂点まであと一歩――20年前、「黄金世代」と称された面々が刻んだ伝説である。

その激闘を主力選手たちが振り返る短期連載「ザ・黄金世代」。今回は、榎本達也(えのもと・たつや)氏が登場!

ワールドユース(現U-20W杯)の最終メンバー入りが決定したとき、僕は当時の所属クラブ(横浜マリノス)に
「(ワールドユースには)行きたくありません。(代表は)辞退したい」と言いました。

当時クラブには(川口)能活さんという絶対的な存在がいて試合には出られなかったのですが、
ワールドユースに行っても、ノーチャンスだと思っていたからです。

前年のアジアユース(ワールドユース予選)では、(この代表チームの)レギュラーGKとしてプレー。
ワールドユース本大会でも"やれる"手応えを感じていました。
それが、トルシエ監督が代表チームを指揮するようになって、状況が一変して......。

自分なりに一生懸命アピールしたのですが、ほとんどまともな勝負をさせてもらえずに、(南)雄太が
レギュラーGKになったんです。それなら、(日本に残って)能活さんの傍らで練習していたほうが、
自分の身になると思ったんです。しかし当然、クラブの答えは「ノー」でした。

結局、気持ちの整理ができないまま(開催地の)ナイジェリアに行ったので、
(現地に着いてからも)自分からチームに溶け込もうとはしなかったですね。
(チームメイトと)話をしないわけではないですけれど、みんながリラックスルームで
DVDとかを見ていたときも、僕はほぼ自分の部屋にいました。

チームへの忠誠心で言うと、みんなが「10」だとすれば、僕は「4」ぐらい。
自分が試合に出られないので、(試合に)勝っても負けてもどちらでもよかったし、
練習でもこのチームのことより、マリノスに戻ってからのことを考えてトレーニングをしていました。

そんな考えだったので、たぶん(正GKの)雄太は「セカンドGKがこれじゃあな......」って感じていたと思います。

今思うと、自分勝手な考えですし、甘かったなと思います。
当時のメンバーの中には「ふざけるな」と思っていた選手もいたはずです。
若気の至りですが、そんな考えなら、「代表に呼ばれる価値なんてないよ」と言われても当然ですよね。
あのときは、みんなに対して、本当に悪いことをしたな、と思っています。

試合で印象に残っているのは、決勝のスペイン戦。スペインのやっていることがすごすぎて、目を奪われました。
シャビはもちろん、みんながうますぎて、勝てる気がしなかった。
0-4で負けたけれど、それは日本が弱いのではなく、スペインが世界でズバぬけていた、ということだと思います。

今も、雄太や(当時バックアップメンバーだった)ソガ(曽ヶ端準)がGKとして現役なのは、すごいこと。

ふたりをはじめ、(小野)伸二たちはかなり負けず嫌いで、自信家で、それでいて自分を客観視できていた。
「自分の隣にいるヤツには負けたくない」「明日の試合は自分が出るんだ」というハングリーさ、
ギラギラしていたものを持っていた。

そういう彼らが「黄金世代」であって、僕は「自分もそうだ」なんて、これっぽっちも思ったことがないです。
それは、当時も、今も変わらないですね。

●榎本達也(えのもと・たつや)
1979年3月16日生まれ、東京都出身。FC東京普及部スタッフ。
浦和学院高→横浜マリノス(現横浜F・マリノス)→ヴィッセル神戸→徳島ヴォルティス→栃木SC→FC東京

2019年4月12日 NiftyNews掲載

清水隆行 12期
清水隆行氏「日本ハムは打線が面白い」…パ・リーグ順位予想
スポーツ報知の紙面で活躍する12人の評論家による19年パ・リーグ・ペナントレースV予想。プロ野球は29日にセ・パ同時開幕する。

清水隆行氏「日本ハムは打線が面白い。長打力があるが、機動力も使えて、広島のような攻撃ができる。
選手が若手中心になってきているので、一気に波に乗る可能性を秘めている。
故障者多発のソフトバンク、菊池が抜けた西武は穴を若手投手でどこまでカバーできるかがカギ」

1位・日本ハム、2位・ソフトバンク、3位・西武、4位・オリックス、5位・楽天、6位・ロッテ

2019年3月27日 スポーツ報知掲載

清水隆行 12期
幸手の子どもたちに巨人OBが野球教室
読売巨人軍OBが講師を務める「さわやか野球教室」が10日、幸手市木立のひばりヶ丘球場で行われ、
元外野手の清水隆行さんと、元投手の林昌範さんが、子どもたちに指導した。

市内の少年野球9チームから約120人が参加。清水さんは打撃や走塁を丁寧に指導し、
林さんは投球する時の軸足の使い方などを教えた。

東日本大震災から8年を迎える前日だったため、被災地の復興を支援するための募金も行われた。

2019年3月13日 読売新聞埼玉版掲載

坂本一将 29期 元:オリックス
元プロ野球選手がアンパンマンのおもちゃを販売!
坂本一将氏(元オリックス)のセカンドキャリア

■オリックスでやってました!

いつでもどこでもスタイルは変わらない。自分のキャラ全開で突き進む。
周りもいつの間にかそれを受け入れ、自然と彼のペースに巻き込まれる。それはユニフォームを脱いでスーツに着替えても同じだ。

元オリックス・バファローズの内野手・坂本一将氏が野球人生にピリオドを打ったのは昨年の秋。
そしてすぐにサラリーマンとして働きはじめた。その転身の早さには誰もが驚いた。

現在、おもちゃを扱う株式会社セガトイズで営業マンとして飛び回っている。
はじめて訪れる取引先ではまず、“中途半端な時期の途中入社の新人営業マン”がどんな人間だろうかと、探りが入る。

「スポーツやってたの?」「へ~、野球?」「いつまで?」「えっ!プロ?」「どこで?」というような会話の運びに
「オリックスです!」と答えると、得意先の担当者はみな一様に驚く。そういうことも坂本氏はおもしろがっている。

今では法人の営業として担当企業を持たせてもらい、ひとりで得意先を回っている。
「無知で入ったので、こうして仕事ができていることが嬉しい」と笑顔をこぼす。

■考えすぎたプロ1年目
どんなときでも常に楽しむところは、選手時代から変わらなかった。
浦和学院高校、東洋大学、セガサミー…と、野球界のエリートコースを歩んできた。しかしやはり目指すのはプロ野球だ。

そこでNPB(日本プロ野球機構)に進むためにセガサミーを辞めてBCリーグ(独立リーグ)の石川ミリオンスターズに移籍した。
そして1年でNPBドラフトの指名を受けた。2016年、オリックス・バファローズから育成4位の指名だった。

プロ1年目はアマチュアとの違いを痛感させられた。
「これまでは一日楽しもうって、やりきっていた。でもはじめて『やんなきゃいけない』って思った。
はじめて『結果』というものを考えた」。

それまでももちろん結果は求めていた。しかし「開き直ってやれていたし、勢いでできていた」と振り返る。
ポテンシャルだけでは通用しないと感じたし、このままでは後悔すると思ったという。

そこで、これまでの“我が道をいく”スタイルを改め、「はじめて聞く耳を持つようになった」と、コーチのアドバイスに耳を傾けた。

それによって、「これまでは感覚でやっていて、考えてやれてなかった」と、自分が無知だったと気づき、
野球の知識を深めるようになった。

しかし何かが違った。うまくいかなかったし、結果も出なかった。

そこで1年目のシーズンが終了してすぐにセガサミー時代の黒川洋行コーチの家を訪ねた。
奈良在住であることから、ウエスタン・リーグの試合もよく見にきてくれていた恩師だ。

すると「なんやねん、この1年!全然オマエらしくない!バカなんだから考えたら終わりや!」と一喝された。

どうやら「プロだし考えないとなと思い込んで、考えすぎて、きれいにやろうとしていた。
プロ仕様にしようとして、変えなくていいことまで変えてしまっていた」ようなのだ。

それに気づくと、だんだんとバッティングの感覚もよくなってきた。
高知の秋季キャンプメンバーにも選ばれ、2年目の春季キャンプでも首脳陣に注目された。
1軍のオープン戦にも呼ばれた。

しかし自分でも覚悟はしていた。この2年目に支配下になれなければプロ野球人生が終わりを告げることを。
そこで辻竜太郎2軍打撃コーチと話をして、「これだけはやり通す」ということを決めた。
チェックポイントは2点…左足の使い方と、バットの出し方だ。

■辻竜太郎コーチと取り組んだ2つのチェックポイント
毎日、試合前のティーバッティングでチェックしてもらった。
辻コーチはよかったら何も言わず、少しおかしくなってきたときだけ「今、こうなっている」とアドバイスをくれた。
あれこれ考えず、とにかくその2点に絞って日々見てもらった。

「左足はよく『回せ』って言われるけど、僕は回したくなかった。
竜さんも『回すのではなく、擦っていいよ』って言ってくれた」と、坂本氏に合う使い方を助言してくれた。

「バットの出し方は平行に、平行に。今まで『ゴロを打て』って言われて育ってきたから、どうしてもぶった切っちゃうんで…」。

足の速い小柄な選手にありがちだが、坂本氏も例に漏れず「フライを上げるな」と、ずっと口酸っぱく言われてきたのだ。
そこでレベルスイングを体に叩き込み、しっかりボールをとらえるようにした。

それを辻コーチは付きっきりで見てくれた。
日々の結果で言うのではなく、ただ毎日じっくり見て、その変化だけを伝えてくれた。

シーズンに入ると「手応え、ありまくりっすよ」と快調に飛ばした。
ウエスタンの打撃ランキングにも常に名前を連ねた。

しかし好事魔多しだ。5月上旬、坐骨神経痛に襲われ、離脱を余儀なくされた。
3週間ほど戦列を離れなければならなかったが、それでも復帰してからも好調を維持し、7月31日の時点でも3割をキープしていた。

■失意の中で得た小谷野栄一氏との時間
7月31日―。育成契約から支配下登録される期限だ。運命の日、坂本氏のもとに吉報は届かなかった。

8月1日の朝になった。「やる気ないっすよ。だってもうクビだもん」。自分が一番よくわかっている。
年齢的にも「もう1年」なんて、あるはずはないだろう。
その後、遠征メンバーにもいっさい入らなくなり、それが何を意味するのかを悟った。

そこで切り替えた。決して気持ちを切らすのではなく、「あと2ヶ月。今まで応援してくれた人たちを呼んで、その人たちに
いいところを見せよう」と、より練習に没頭し、試合ではより全力プレーを心がけた。

当時、ファームには素晴らしい先輩がいた。小谷野栄一氏(現在は東北楽天ゴールデンイーグルス・打撃コーチ)だ。
「ずっと小谷野さんに野球の話聞いて、それを人生に活かそう、次の仕事に活かそうって、そういう思考にシフトチェンジしていった」。

「小谷野栄一」という選手は、坂本氏によると「心構え、準備をする人」だという。
「技術的なことより、どういう心境でやってんすかとか、緊張とか、そういう話をたくさん聞いた」。

この夏、小谷野氏から聞いた数々の話は坂本氏の心に深く刺さり、今も大切な宝ものになっている。

■佐々木章人社長のもとで働きたかった
実際に“宣告”を受けたのは10月4日だ。
しかしそれまでの間、坂本氏はすでにセカンドキャリアを考えていた。「サラリーマンをしたい」。それは明確だった。

「野球を嫌いになったわけじゃない。野球でいろいろ経験できたから、次はサラリーマンをしたいと思った」。

社会人や独立リーグ、企業の軟式野球チームなど数々声はかかったが
「どうしようかな、またやりたいと思うかもしれないっていうのも、まったくなかった」。
坂本氏の中では野球に対してキッパリとけじめをつけていた。

実は坂本氏には働きたいと心に決めていた会社があった。
それが株式会社セガトイズ(玩具の企画、開発、製造および販売)だった。

社会人野球のセガサミーでプレーしていた当時から、関連会社であるセガトイズの佐々木章人社長は
「小っちゃい体でがんばっている。ガッツあるな」と応援に来てくれていた。
佐々木社長に気に入られた坂本氏は、所属会社でもないのにセガトイズの飲み会にまで呼ばれるようになった。
そんな選手は前代未聞だったようだ。

セガサミーを辞めて石川に入るときも挨拶にいくと、業務時間内であるにも関わらず社員全員を集めてエールを送ってくれた。
照れくさかったが、佐々木社長の気持ちがとても嬉しかった。

社長だけでなく現在の直属の上司である佐瀬新哉氏も、石川やオリックスの試合を見にきてくれ、しょっちゅう電話もくれていた。

「会社に何回も来てたし、明るい雰囲気で、こういうところで働きたいって思っていた」。
ほかにも数社からの誘いがきていた。
しかし「佐々木社長以外、ピンとこなかった。豪快だし、もっとも尊敬できる人。そういう人のもとで働きたいと思って…」。

けれどセガトイズから「来てくれ」と請われたわけではない。社員募集の告知があったわけでもない。
それでも「ここしかない」との思いで自身を売り込み、“社長面接”までこぎつけたのだ。

部屋に通され、座った瞬間だ。「入りたいです」。この6文字だけを口にした。
すると佐々木社長は「変わってねぇな」と笑い、「変なゴタク並べたら断ろうと思ってたよ」と快く受け入れてくれた。
「坂本一将」という人間を買ってくれていたのだ。

即座にその2日後の11月1日から出社することが決まった。

■愛されキャラで懐に飛び込む
今、坂本氏はやる気に満ち満ちている。
「どんどん新しいことをやる会社なんで、僕も常に挑戦したい。ナンバー1営業マンになって、会社や社長に貢献したい」。
生き生きと目を輝かせて話す。坂本氏のキャラは社風にもピッタリのようだ。

「独立リーグのバス移動のほうが、よっぽどつらかったすよ(笑)」と、きつい出張の日程もまったく苦にならない。
入社してすぐのクリスマス商戦では、大型量販店の店頭にも立った。
アンパンマンのエプロンを着けておもちゃの販売をすることも喜んでやった。

「野球しかしてこなかったから、真っ白なんです」。
だから、いろんなことを吸収できる今が楽しくてしかたない。しかしその一方で、己の無力さを痛感しているという。

「何もわからないんです。パソコンの操作も知らないし、まず、机の前に一日座ってるのも、はじめはきつかったぁ。
こんなに一日座ったことないから(笑)」。それでもそういう苦労でさえ、楽しんでいるように窺える。

野球部で培った“能力”も役立っている。
「僕ね、人を覚えるのは得意なんです。大学のとき、全先輩の名前と出身校を覚えなきゃいけなかったんで」。

現在は電車に乗ったときなど、ちょっとした時間にも電話帳に登録した人を確認して覚える作業に勤しむ。
社内の人にも必ず名前で呼びかけ、覚えるとともにコミュニケーションを深めるよう務めている。

そもそもが根っからの“愛されキャラ”だ。人の懐に入り込むのが早い。
社内の週報もほかの社員とは違い、時候の挨拶などを盛り込んだ手紙のようなスタイルで書く。
本人は真剣に書いているのだが、それが笑いをとり、一躍その存在感を定着させることとなった。

■すべての経験を糧にして―
独立リーグで厳しい環境を経験したことによって、社会人まで恵まれた中で野球をしてきたありがたみを実感した。
そしてプロに入ってからは、一流選手の過ごし方や心構えを間近で見ることができた。
「一緒にやらないとわからない」ということを身をもって経験できた。

「すべてがプラスのいい体験になった」。新しい世界で働く今、それが随所で活きている。

今後のことを尋ねると、「まだビジョンを描ける段階じゃない」と表情を引き締めた。
まずは与えられた仕事をきっちりやることから始め、積み重ねながらいずれはナンバー1営業マンに―。

それが、ずっとかわいがってくれている佐々木社長への恩返しになると信じている。

2019年3月6日 Yahoo!ニュース掲載

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
たむけんチームで元阪神・今成氏が激走!たむけんはカレー大盤振る舞い
フジパンPresents 淀川 寛平マラソン2019(3日、大阪・淀川河川公園)3度目の開催で
6区間約36キロに変更された駅伝は、よしもと芸人チームに加え、カンテレ「報道ランナーチーム」と
昨季まで阪神でプレーした今成亮太氏(31)=現タイガースアカデミーベースボールスクールコーチ=が初参戦。

タレント、たむらけんじ(45)はスポーツで実績のある芸人らをスカウトし「チーム走ると思います!!」の1区に出走。
「10キロよりしんどい。やっぱタスキの重さかな」と息を切らした。
さらに、今回も「炭火焼肉 たむら」のカレーライス200食を無料でふるまう太っ腹だった。

2区は昨季まで阪神でプレーした今成亮太氏(31)=現タイガースアカデミーベースボールスクールコーチ=が好走。
「途中に野球少年がいて、元気づけられました」とたむけんの遅れを取り戻した。

ステージではファン感謝デーでおなじみだったモノマネをムチャ振りされたが、「僕の尊敬する上本博紀さんでサインを見てから
ライトにファウル。ファウルからの三遊間ヒット」を披露し、爆笑を誘った。

2019年3月4日 サンケイスポーツ掲載

石井義人 17期 現:女子プロ野球トップチーム総合コーチ
元巨人の石井義人氏が女子プロ野球へ 総合コーチに
西武、巨人などで活躍した石井義人氏(40)が1年10カ月過ごした山形を離れ、2月から新天地の女子プロ野球で本格始動した。
17年3月から公徳会佐藤病院(南陽市)の軟式野球部監督を務め、地元開催だった昨年9月の天皇賜杯全日本大会の指揮を最後に退任。
今年から日本女子プロ野球リーグ(JWBL)に籍を移し、リーグ全選手を統括する立場の野手総合コーチに就任した。

巨人で代打の切り札として活躍した石井氏が新天地に選んだのは、今年で創設10年目を迎える女子プロ野球だった。
1月いっぱいで山形を離れ、2月上旬から選手たちへの指導を開始。
埼玉、名古屋を巡回し、26日からは京都に数日間の予定で滞在する。
「日本に女子野球文化を根付かせたい」と使命感を口にした。

JWBLは今季で創設10年目を迎え、埼玉加藤優外野手(23)、京都みなみ外野手(22)ら人気選手も多い。
埼玉、愛知(名古屋)、京都の3球団で公式戦を行い、上位2チームの直接対決で年間女王を決める。
石井氏は巡回コーチ的な立場で、1週間ごとのローテーションで各ホームに滞在し、
トップチーム3球団の全野手を対象に打撃、守備、走塁すべてで技術指導する。
現在は3月23日のリーグ開幕に向け、実戦的なメニューにも力を入れる。
一部選手を指導した印象としては、「技術的な疑問など、女性の方が積極的に助言を求めてくる。
真剣味を感じる。男より教えやすいかも」と、熱心さに新鮮味を感じていた。

山形では畑違いの軟式野球を指導したが、1年目の17年には佐藤病院を天皇賜杯で過去最高の3回戦に導いた。
昨年も地元開催で1勝を挙げるなど、東北を代表する軟式チームへの地ならしを終えた。
軟式に接したことで「レベルスイングを基本に、バットの出方をあらためて学んだ」と収穫もあった。
高校野球視察などでも触れた山形での指導者生活を振り返り、「同じ野球を続けては全国で勝てない。自分たちで気付くこと」とエール。
県野球界全体のさらなるレベルアップを願った。

2019年2月28日 日刊スポーツ掲載

榎本達也 18期 現:FC東京コーチ・ブラインドサッカー日本代表
ブラインドサッカー 蕨で小中学生ら体験
日本代表 講師に

2020年東京五輪・パラリンピックに向けて、障害者スポーツへの関心を高めようと、ブラインドサッカー体験会が
16日、蕨市民体育館で開かれた。日本代表の榎本達也選手(39)と田中章仁選手(40)が講師を務め、
市内の小中学生や保護者ら計約100人がアイマスクを着用してミニゲームを楽しんだ。

蕨市などが主催し、東京ガス埼玉支社などが協力。体験会は午前と午後の2回行われた。

アイマスクを着けた参加者たちは、まっすぐ歩く練習をした後、声や拍手を頼りにボールを探してシュートするミニゲームを行った。
榎本選手が「大きな音で合図を送って」「声をよく聞いて」と指導。シュートが決まると歓声が上がった。

市立第一中学1年の井坪海斗君(13)は「目隠しをしてプレーするのは想像以上に難しかったけど、声を掛け合って楽しかった。
パラリンピックでもしっかり応援したい」と話した。

2019年2月17日 読売新聞埼玉版掲載

石井義人 17期 現:女子プロ野球トップチーム総合コーチ
元巨人・石井義人氏、女子プロ野球コーチとして「女子野球全体のスキルアップができれば」
西武、巨人などで活躍し、今季から女子プロ野球リーグの野手総合コーチに就任した石井義人氏(40)が14日、
埼玉アストライアの磯崎由加里コーチ兼任投手(27)、中田友実外野手(23)とともに東京・港区の報知新聞社を訪問。
3月23日に開幕する今季リーグのPRと新天地での抱負を語った。

14年の現役引退後、BCリーグ武蔵のコーチや軟式野球の監督を務めていた石井氏は
今年から投手総合コーチに就任した元ロッテの小林雅英氏(44)とともに、埼玉、愛知、京都の3チームを指導する。
3年前にも女子プロ野球の練習を見たというが、「選手も若返ったし、男子と違って活気がある。
体格の違いはあるが、下半身の使い方など、少しでもアドバイスして女子野球全体のスキルアップができれば」と期待を込めた。

埼玉で練習を見たのはまだ2日というが、中田は「足の回転など、気づいていなかった部分を指摘してもらえて、自分の引き出しが増えた」と
“NPBの技”を伝授され、笑顔。2年ぶりのベストナインとゴールデングラブ賞の奪取を目標に掲げた。

一方、プロ5年目の磯崎は今季からコーチも兼任。
「教えるのは得意ではないですが、チームでも上から2人目の年齢。自分らしい指導でチームに貢献したい」と
意気込み、投手としては防御率1点台と自身最多の11勝以上を宣言。
中田とともにバレンタインのチョコをふるまった。

2019年2月14日 スポーツ報知 ネット配信

今成亮太
 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
元阪神のお祭り男・今成亮太氏「寛平マラソン」出るなり~!寛平と対談
プロ野球の元阪神内野手で昨季限りで引退した今成亮太氏(31)が、タレント、間寛平(69)がホストを務める
市民マラソン大会「フジパンPresents淀川寛平マラソン2019」(3月3日、大阪・淀川河川公園)の
男子10キロの部に出走することが決まり12日、大阪市内で寛平と対談。
メインステージにも上がって大会を盛り上げることを約束した。
阪神のファン感謝デーで何度もMVPを獲得したお祭り男が、淀川に降臨する。


 寛平 「10キロ、よろしくお願いします」

 今成 「ガチで10キロ走らないとダメだと思って、けっこう練習したんです。そしたらひざが…」

 寛平 「たむけんに負けたらアカンで!」

 今成 「はい! 現役のときは10キロ走ったことないと思います。
高校のときは30キロ、40キロ走っていましたけど。高校時代の関節ではないので。体重も増えて…」

 寛平 「僕ね、実は今成くんの顔、見えてないです」

 今成 「えーー!! 僕、映画『ホームアローン』のマコーレ・カルキンに似てるってよく言われてるんです」

 寛平 「またまた、そんな…。(眼鏡をかけて)ホンマや!」

 今成 「あはは! ありがとうございます。今、めちゃめちゃうれしいです」

 寛平 「僕は目標があるねん。100歳まで生きようという。100歳でフルマラソンを走りたい。
1日かかってでもいいからやりたいねん」

 今成 「30年後だったら、僕は61歳か。僕も一緒に走ります!」

 寛平 「横について走ってな。2日間かかるかもしれないから」

 今成 「僕、お笑い好きなんです。寛平師匠と(池乃)めだか師匠の『猫と猿』とか大好きなんです」


 寛平 「もっと(現役を)やりたかったやろ? 31歳やもん」

 今成 「実際、体はまだ元気だったんで、やりたいという気持ちはありましたけどね。
甲子園でできたんで幸せでした。ヒーローインタビューに何回も立たせていただいて」

 寛平 「忘れられへんやろ」

 今成 「ええ経験させてもらったんで、いろんな方とも出会えましたし、今後は恩返ししていきたいですね」

 寛平 「ほんなら、10キロも恩返しするつもりで走ってくださいよ。来年も、再来年も、ずっと続けていこう」

 今成 「はい! ぜひぜひです。僕の足が続く限り出ます」

 寛平 「走る前とか、舞台に上がっても大丈夫?」

 今成 「はい! むしろそういうの好きなんで、お願いします。根っからの目立ちたがり屋なんで、好きにイジってください」

 寛平 「わかった。一緒に盛り上げよう。ファンキー加藤くんも来るし」

 今成 「僕は大きな声なら出ます!」

 寛平 「じゃあ、たむけんとイジっていくわ」

 今成 「ぜひぜひ、お願いします!」

★今成亮太(いまなり・りょうた)

1987(昭和62)年10月6日生まれ、31歳。
埼玉県出身。浦和学院高から2006年高校生ドラフト4巡目で日本ハム入団。
2012年途中に阪神へトレード移籍。昨季限りで現役引退し、阪神の球団職員となる。
現役時代は178センチ、79キロ。右投げ左打ち。捕手と内外野を守り、
通算成績は470試合に出場、打率・265、6本塁打、68打点。

▼フジパンPresents淀川寛平マラソン2019
東日本大震災・熊本地震・大阪北部地震・西日本豪雨・北海道胆振東部地震被災地支援


【とき】3月3日(日)=雨天決行(ウォークは3月2日)
【ところ】大阪・淀川河川公園特設コース=枚方地区発着(ウォークは太子橋地区発)
【主催】吉本興業、産経新聞社、サンケイスポーツ、淀川河川公園
【特別協賛】フジパン

2019年2月13日 サンケイスポーツ掲載

清水隆行 12期
元巨人・清水氏、母校・東洋大で不定期臨時コーチ「機会を与えてくださって感謝」
元巨人外野手の野球評論家・清水隆行氏(45)が、東都大学リーグ1部の母校・東洋大で不定期の臨時コーチを務めることが6日、分かった。

清水氏は東洋大を経て95年ドラフト3位で巨人に入団。
02年にはチームのシーズン最多記録となる191安打を放つなど、安打製造機として勝利に貢献してきた。
11年には巨人2軍打撃コーチに就任し、14年から2年間、1軍打撃コーチを務めた。

巨人在籍時から母校のことを気にかけており、今回、臨時コーチ就任にあたり「自分自身、より野球が勉強できることを
うれしく思うし、このような機会を与えてくださって感謝しています。選手のために少しでもサポートができればと思います」と話した。
ユニホームを着て指導することはないが、不定期にグラウンドを訪ね、プロで築き上げた経験を学生たちに注入する。

2019年2月7日 スポーツ報知掲載

元プロで学生野球資格回復が認められた方々
日本学生野球協会の資格審査委員会が昨日(5日)行われ、元プロ野球選手など116名の
学生野球資格回復(再回復を含む)が認められました。
日本学生野球協会HPにも公示されました。

今回、資格回復が認められた浦学OB
清水隆行 12期
田中 充 14期
豊田拓矢 25期

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
エンターテイナー今成コーチ“若虎育成”手腕に期待
今年の初め、久しぶりに明るい声を聞いた。1月7日に行われた阪神の年賀式。
壇上であいさつする新入団の球団職員の中に、今成亮太氏(31)の姿があった。
昨季限りで引退し、タイガースのアカデミーコーチになることが決まっていた。

今成氏と初めて話したのは、2年前の鳴尾浜球場だった。
当時記者になったばかりの私が、初めて話した阪神の選手が今成だったと思う。
名刺を差し出すと「もったいないから、いいよ!」と言って受け取ってくれなかったが、
埼玉出身ということもあり、今成氏の母校の浦和学院や地元について話が弾んだ。

それから毎日鳴尾浜に行っていたわけではないが、私が見る今成氏はいつも笑顔を絶やさなかった。
昨年10月に阪神を戦力外となった後、現役続行を模索しながら鳴尾浜を訪れた時でもそうだった。深刻なそぶりは見せなかった。

年賀式の今成氏のあいさつは、大爆笑を誘った。
「僕の引退会見にお集まりくださり、ありがとうございます」「(アカデミーで指導する)子どもたちには
タイガースに入ってもらって、ファン感謝祭を盛り上げてもらいたい」
「僕自身もチャンスがあると思っていますので、矢野監督にアピールしていきたいと思います」。さすがの盛り上げっぷりだった。

年賀式の途中、今成と2年越しに名刺交換をした。
「俺、新人だから下から出すね」とにやり。
周囲を喜ばせるエンターテイナーが指導するアカデミー。育っていく選手たちがとても楽しみだ。

2019年1月28日 日刊スポーツ掲載

今成亮太 26期 現:阪神タイガースアカデミー専属コーチ
元阪神・今成氏「悔しいこともあったけど…」現在の懐事情も告白
昨季限りで現役を引退した元阪神の今成亮太氏(31)が26日、毎日放送「せやねん!」に出演。
引退後は事業本部振興部に配属され、昨年4月に開講した、タイガースアカデミーの専属コーチに就任、現在の生活について明かした。

現役中はチームのムードメーカーとして活躍。現在は子供たちに野球を教える日々だが
「子供たちができないプレーができるようになる、その一瞬、一瞬に立ち会えるのがうれしい」と目を細めた。
戦力外となったことに「寂しい」と語る一方で、「またユニホームを着させていただけるのはうれしい」と
アカデミーコーチ就任を喜んだ。
現役時代より少しほっそりした印象だが「コーチなので、そこそこ(体重増には)気をつけている」と健康管理は怠りない。

共演した吉本新喜劇の宇都宮まきから「貯金はあるんでしょう?」という懐事情の質問に、
「あると思われがちですけど…」と言葉を濁し、高額年俸選手は一部であるとした。
現在は「実際、半分以下」と収入についても告白。さらに“退職金の前渡し“とも言われる契約金についても、
すでに手元には残っていないことを明かした。
「両親にあげたりとか、僕が使ったわけじゃないんですけど」と苦笑い。

プロ野球選手のときとは生活水準を替えなければならず「家を引っ越したりとか」と、堅実に第二の人生もスタートさせた。
現在は野球に例えると「3回序盤です!悔しいこともあったけど、これまでのことを無駄にしないように頑張っていきたい」と前を向いた。

また大腸がんを公表した原口文仁捕手には「同じ埼玉県人。まじめな性格で、よくなってほしい」とエールを送っていた。

今成氏は、埼玉県出身。浦和学院高校から2005年、日本ハム高校生ドラフト4位で指名され
契約金3000万円、年俸480万円(金額は推定)で入団。
2012年4月、若竹竜士との交換トレードで阪神タイガースへ移籍。


2019年1月26日 デイリースポーツ ネット配信

坂元弥太郎 21期・今成亮太 26期・坂本一将 28期
元プロ選手らが野球教室 三芳、園児から中学生まで
プロ野球のヤクルトスワローズや埼玉西武ライオンズで活躍した坂元弥太郎さん(浦和学院高出)が中心となった
野球教室が坂元さんが所属する「アスリートプランニング」の室内練習場(三芳町竹間沢)で開催され、
幼稚園児から中学生までの70人が参加した。

講師を務めたのは同社の野球スクール「APベースボールワールド」で指導している坂元さんのほか、
元阪神タイガースの今成亮太さん(今季から阪神球団職員)、元オリックスバファローズの坂本一将さんの
いずれも名門・浦和学院高野球部のOB。
バッティングと守備の本格的な指導に加えてスピードガンコンテストや遠投ストライク勝負、
プロ野球選手との対決など計3時間、モノマネ芸人の似関本賢太郎さんも参加し、楽しいイベントで盛り上がった。

一流の技に目を輝かせる野球少年たちに今成さんは「この中から将来、たくさんプロ野球選手が出てほしい」と熱く語り掛けていた。

2019年1月21日 埼玉新聞掲載

谷口英規 8期 現:上武大学硬式野球部監督
侍ジャパン大学代表、日米大学野球3大会ぶりVへ首脳陣続投
全日本大学野球連盟は15日、横浜市内で監督会を行い、侍ジャパン大学代表のヘッドコーチに上武大・谷口英規監督(49)、
コーチに前広島監督の野村謙二郎氏の実弟で環太平洋大前監督の野村昭彦氏(50)と日体大・古城隆利監督(49)の留任を決めた。
監督は任期2年の最終年となる亜大・生田勉監督(52)が務める。
大学代表は7月に第43回日米大学野球選手権(神宮など)で16年大会以来の優勝を目指す。

また監督会の新会長に、中央学院大・菅原悦郎監督が就任。
副会長には再選となる九産大・大久保哲也監督に加え、新たに日大・仲村恒一監督、東大・浜田一志監督が選出された。
任期満了で会長を退任した明大・善波達也監督が顧問を務める。

2019年1月15日 スポーツ報知 ネット配信

石井義人 17期
元ロッテ小林雅氏、元巨人石井氏が
女子プロ野球トップチーム総合コーチに就任
★小林雅氏は投手総合コーチ、石井氏は野手総合コーチを務める

日本女子プロ野球リーグは10日、昨年までロッテの1軍投手コーチを務めていた小林雅英氏、
かつて西武、巨人で活躍した石井義人氏が指導者として就任することを発表した。

小林氏はトップチーム(京都・愛知・埼玉)の投手総合コーチ、石井氏はトップチームの野手総合コーチを務めることになる。

また、愛知ディオーネの森章剛ヘッドコーチならびに埼玉アストライアの福留宏紀ヘッドコーチは昨シーズンで退任したことも発表した。

小林氏は球団を通じ「この度ご縁があり女子プロ野球の投手総合コーチに就任することになりました。
選手の技術の向上とリーグの発展に尽力していきたいと思います。どうぞよろしくお願いします」とコメントを発表。

石井氏も「この度、日本女子プロ野球リーグの野手総合コーチとして就任させて頂きます石井です。
今まで、経験してきた事を選手達に指導し個々のレベルアップを目標にやっていきたいと思います。
そして、今まで以上に女子野球を盛り上げられる様に頑張りたいと思います。宜しくお願い致します!」とコメントを発表した。

2019年1月10日 full-count掲載
2018年
清水隆行 12期
学生野球の資格回復研修、高田繁氏ら136人が受講
元プロ野球関係者が学生を指導する際に必要な学生野球資格回復のためのプロ側の研修会が14日、東京・千代田区で行われ、
DeNAのゼネラルマネジャーを退任した高田繁氏(73)や前巨人1軍内野守備走塁コーチの井端弘和氏(43)、
今季限りで現役引退した前DeNA・田中浩康氏(36)ら136人が受講した。

過去のプロとアマの歴史や、高校生のけが予防、元巨人ドラフト1位で現在は東海大静岡翔洋高監督の原俊介氏(41)の体験談などを聞いた。
「すごく勉強になりました。いつかは高校野球の監督をやってみたいなと思う」と井端氏。
受講者はアマ側の研修を2日間受け、来年2月の日本学生野球協会の審査に通れば指導が可能となる。

★主な参加者
高田繁(前DeNA・GM)、川相昌弘(前巨人2軍監督)、豊田清(前巨人コーチ)、
清水隆行(元巨人コーチ)
尾花高夫(前巨人コーチ)、角富士夫(元ヤクルト)、森脇浩司(前中日コーチ)、藪恵壹(元阪神など)、
小林雅英(前ロッテコーチ)、梵英心(元広島)、田中浩康(前DeNA)、米野智人(元日本ハム)、
佐藤貴規(元ヤクルト) (順不同、敬称略)

2018年12月15日 サンケイスポーツ掲載
清水隆行 12期
プロの投球走塁 野球少年に伝授
読売巨人軍OBが子供たちに野球を教える「読売さわやか野球教室」が8日、
蓮田市総合体育館多目的広場で開かれ、市内の5つの少年野球チームの67人が元選手から指導を受けた。

講師を務めた元投手の水野雄仁さん(53)と、元外野手の清水隆行さん(45)が、
走塁時のベースの踏み方や正しい投球フォームなどを見本を見せながら指導。
同市立黒浜西小6年の出野健太君(12)は「元選手から投げ方を教えてもらえてうれしかった」と話した。

2018年12月9日 読売新聞埼玉版掲載
坂元弥太郎 21期
4球団を渡り歩いた坂元弥太郎氏、今も変わらぬ野球への情熱
ずいぶんと小さい子だなと思った。握っているバットが長く見える。聞いてみれば、まだ5歳だという。当然、力はない。
だから体全体を使ってスイングする。見た目と不似合いなライナーが飛んでいく。「凄いな…」。素直にそう思った。

ヤクルトと日本ハムの担当時代に取材した坂元弥太郎氏を訪ねた。
現在、埼玉県三芳町にある練習場で野球スクールを開いている。
近くに来ていたので、アポイントを取ることもなく寄ってみると、その少年と会った。

坂元氏の母校である浦和学院の先輩の息子さんだという。
ヤクルト、日本ハム、横浜、西武と4球団を渡り歩いた元プロ野球選手が見ても、「スーパー5歳児ですよ」と絶賛するほどだった。

幼稚園児だというのに、お父さんが上から手投げするボールを30分ぐらい、休むことなく振り続けていた。
坂元氏は「この1年間、かなりやっていますからね」と言った。その表情はうれしそうで、どこか得意げのようにも見えた。

スクールの生徒が上達する。それこそが最高の喜びなのだろう。倉庫を改造してできあがった室内練習場は、完成からまだ4年。
それでも、地面に敷き詰めた人工芝はだいぶ薄くなってきた。それも、坂元氏が熱心に始動してきた証と思えた。

「スーパー園児」が帰った後には、中学生を相手に、自ら1時間以上も打撃投手を務めていた。
「ちょっと練習に来たからといって、うまくなるコツを教えることはできない」とも言った。
体で覚えてもらうために、ひたすら右腕を振っていた。
現役時代に比べると、体も若干ふっくらとしていたが、野球への情熱とタフさは変わらなかった。

夜も10時を過ぎたので、こちらは一足先に帰宅することを坂元氏に告げた。
「あの子、取材する価値がありますよ」――。5歳の少年の成長ぶりはちょっと気にしてみようかなと思っている。

2018年12月4日 スポーツニッポン掲載
山根佑太 34期
23歳の「野球エリート」が大学卒業後に描く夢
日本一になった山根佑太がバットを置いた訳

山根佑太という名前を聞いたことがある人はどれくらいいるだろうか?
2013年春のセンバツ甲子園で優勝した浦和学院のキャプテン、立教大学入学後は4年春に全日本大学野球選手権で日本一になった男だ。
だが、2018年春の大学卒業と同時にバットを置いた。エリート野球道を歩み続けた男はなぜ野球をやめたのか?
『プロ野球を選ばなかった怪物たち』では山根の今に迫った。

野球部のある高校は全国に3700校以上もある。
2018年夏、甲子園に足を踏み入れられたのは56校だけだ(記念大会以外は49校)。確率にすればわずか1.5パーセント。
どれだけ実力のあるメンバーがそろっても、百戦錬磨の監督が采配を振っても、途方もない数字であることに違いはない。

だから、プロ野球で活躍するスーパースターのなかには、高校時代に甲子園に出ることができなかった選手がたくさんいる。
甲子園出場が夢で終わった球児の多くは、山根佑太の実績を見てジェラシーを覚えるはずだ。

2012年、二年生の春に、浦和学院(埼玉)の外野手として初めて甲子園に立ち、三年夏まで4回連続で出場している。
出場できる可能性のある5回のうち4度、憧れの舞台でプレイした。
二年春は3回戦で大阪桐蔭(大阪)に敗れたもののベスト8に進出、夏も3回戦まで進んだ。

三年春のセンバツはキャプテンとして全国制覇に貢献。決勝で済美(愛媛)の安樂智大(現東北楽天ゴールデンイーグルス)を打ち崩した。
最後の夏は1回戦で仙台育英(宮城)に敗れたものの、10対11の激闘を展開している。

甲子園の通算成績は49打数20安打(打率4割0分8厘)、16打点。
甲子園で持ち前の打棒を十二分に発揮し、9個の勝利を積み重ねていった。

立教大学入学後、四年の春にはクリーンナップに座り、18年ぶりの東京六大学リーグ優勝を手繰り寄せ、
続く全日本大学野球選手権では59年ぶりの日本一にものぼりつめた。
その春の活躍は目覚ましく、打率2割7分7厘、4本塁打、7打点を記録し、ベストナインに輝いた。
秋のリーグ戦でも2本塁打を放っている。

★大学卒業後にプロに行ける可能性もあった

身長180センチ、体重77キロの恵まれた体格、一発長打を秘めた豪快な打棒、読みの鋭さは、さらなる「伸びしろ」を感じさせた。
日本のプロ野球で右打ちの大砲が不足していることを考えると、プロ志望届を提出すればドラフト会議で指名される可能性もあっただろう。
勝負強さとスケールの大きさは、ほかの選手にはないものだった。

しかし、山根は大学卒業と同時にバットを置いた。社会人野球でもプレイしていない。

数々の栄光に包まれた野球人生は静かに幕を閉じたのだ。

東京六大学を代表するスラッガーは、なぜ野球の世界に別れを告げたのか?

★常にレギュラーだった男がぶつかった壁

山根が高校卒業後に進学先として選んだ立教大学野球部は東京六大学の名門のひとつだが、1999年を最後にリーグ優勝から遠ざかっていた。

「立教大学は自由な雰囲気があって、上下関係もありませんでした。先輩を『まっちゃん』と呼ぶような。
浦学で1学年上だった佐藤拓也さんには、『外野手がいないから、一年生から試合に出るチャンスはあるよ』と言われたのですが……」

しかし、大学では思うような結果が残せない。自由な校風の立教大学だから、ライバルであるはずの上級生も目をかけてくれた。
「頑張れよ」と声をかけてくれる人もいた。しかし、山根のバットから快音が聞かれることはなかった。

「金属バットから木製に変わった影響はありませんでした。高校時代は練習で竹バットを使っていたので。
でも、それまでのように打てなくて……ずっと歯がゆい思いをしていました」

それでも期待の新人だけにチャンスは巡ってくる。一年春のリーグ戦からベンチに入ったものの、結果は残せなかった。
3年間で22打数2安打、打率は1割にも満たなかった。

「甲子園優勝チームのキャプテンということで、期待度が相当上がっていましたね。
でも、もともと僕の能力が飛び抜けていたわけではありません。野球は個人競技じゃない。
あの大会では、エースの小島和哉(早稲田大学。ドラフト3位で千葉ロッテマリーンズへ)が抑えて、
みんなが打ったから勝てたわけです。
たまたま僕がキャプテンだったというだけなのに……ハードルが上がり切っていて、
膨れ上がった期待に応えようと、もがきにもがいた3年間でした」

鳴り物入りで入学してきただけに、成績を残せなければ肩身は狭い。
風当たりは強くなり、自分を誹謗中傷する「声なき声」が聞こえてきた。

「ちょっと打てないと『あの山根はダメだ』となりますよね。
『インターネットでこんなこと書いてあるの見つけたよ』とわざわざ教えてくる人もいました。
そういうのがうざったかったし、悔しかった」

★誰のために野球をやっているのか分からなくなった

山根に期待したのは関係者だけではない。当然、両親は高校時代と同じような活躍を求めていた。

「そんなときに思っちゃったんですよね。『何のために、誰のために野球をやってるんだろう』って」

仲間とただ楽しくプレイした先にいつも勝利があった。だからこそ、厳しい練習も苦にならなかった。

ずっと目の前の試合に勝つことだけを考えていたのに。

★負のスパイラルにはまっていた山根

「状況を変えないと……打たなきゃ……と、そればかりでした。力が入れば入るほどうまくいかなくなる。
完全に負のスパイラルにはまってしまいました」

悩みに悩んだ末に、山根はひとつの結論にたどりついた。

「大学で野球をやめよう」

そう決意したのだ。

それから、まわりの評価は一切気にならなくなった。もう「何かのために」野球をする必要はない。
あと1年、大好きな野球をやり切ろう。気持ちが固まった瞬間に、肩が軽くなった。

「昔みたいに思い切ってバットを振れるようになったのは、それからですね。
もう打てても打てなくてもいい。結果を出せなくても関係ない。試合を楽しもうと思えました」

四年生の春、山根は変わった。

チャンスで試合の流れを変える一発を放ち、1999年以来ずっと優勝から遠ざかっていたチームに勢いをつけた。
山根が放った4本のホームランのうち、1本でも不発に終わっていたら、立教大学の今世紀初めての優勝はなかったかもしれない。

「あのシーズンは本当に気持ちよかった。技術的にはそれまでと何も変わっていません。違ったのは気持ちだけです」

もちろん、レベルの高い東京六大学のピッチャーを相手に、気持ちだけで打てるはずがない。
もともと備わっていた「体」と「技」に、最後に「心」が追いついたのだ。

それまで「あと1勝」で逃し続けていた立教大学の優勝に、地元の池袋は沸いた。
東京六大学王者として臨んだ全日本大学野球選手権で、各地の代表を撃破して59年ぶりの日本一に輝いたことで騒ぎはさらに大きくなった。

★向上心もなしに野球は続けられない

当然、山根を見るまわりの目は大きく変化した。ところが、本人は浮かれることもなく、自己評価も変えなかった。
「大学で野球をやめる」という決意は少しも揺るがなかった。

「プロ野球でやってやろうという色気は全然なかったですね。
もしプロに入ったとしても、長くは活躍できないだろうと客観的に自分を見ていました。
立教大学の1年先輩の田中和基さん(現東北楽天ゴールデンイーグルス)くらいの身体能力があったら、
『プロに行く』と言ったかもしれません。僕は足がそこまで速くないし、肩も強くない。
四年のシーズンにちょっと打っただけ。それで『プロだ、プロだ』って騒ぐほうがおかしい。

和基さんは大学で結果を残さなかったとしても、プロに求められた選手だと思います。
足は速いし、驚くほど肩は強いし、当たればどこまでも打球が飛んでいく。そういう人がプロに行くんだと思います」

★野球を辞める気持ちは変わらなかった

山根は誰より冷静だった。

「それほど身体能力の高くない僕が、たまたま成績を残しただけで、勘違いしちゃいけない。
親は野球をやめないほうがいいと言っていましたが、僕の気持ちは変わりませんでした」

もしプロ野球の球団からドラフト会議で指名されれば、1位なら契約金は1億円、3位、4位指名でも5000万円は下らない。
山根と立教大学の同期で、阪神タイガースに3位指名された熊谷敬宥の契約金は6000万円、
東京大学のエースで、北海道日本ハムファイターズから7位指名を受けた宮台康平の契約金は2500万円と報道されている。

プロ野球選手はもちろん、金銭的に恵まれている。活躍次第でさらに知名度が上がり、人脈もできる。
もし大成できなくても得るものがあるはずだ。

「僕のまわりにも『契約金をもらえるんだから、プロでやってみれば』と言う人もいました。
でも、僕はその何年間かをムダにするのが嫌だったんです。3年でクビになるとして、3年間を空っぽの状態で野球をやっても仕方がない。
野球に対する向上心もないのに、お金のために過ごすことはできない。お金持ちになれなくてもいいんです。
明日死んじゃうかもしれないのに、本当に自分がやりたいこと以外はやりたくない」

プロ野球を目指さないとしても、社会人で野球を続けるという選択肢もあったはずだ。
さらに高いレベルで揉まれることで、気持ちが変わる可能性もある。

「大学で4年間プレイしているうちに、プロに行く気がない人間が社会人で野球をやるのはどうかと思うようになりました。
プロを目指す気持ちがないのに、野球を続ける……『とりあえず社会人で』とは思いませんでした」

★ずっといた野球の世界から飛び出す

山根は、子どものころからずっと打ち込んできた野球をやめる決断をしたことで、最高の1年を送ることができた。
野球エリートとしてど真ん中を歩いてきた男は、大学を卒業したあと、何を職業に選んだのか。

「いまは、個人オーダーのスーツの販売をしています。もともとスーツの仕事をしたいという気持ちがあったので。
採寸して生地を選んでもらって、その人に合ったスーツをつくっています。お客さんにはプロ野球選手も、普通のビジネスマンもいます。
単価自体は高くありません。店舗は持たず、直接オーダーをいただいています」

それまで関わってきた野球の世界とは何もかも違う。経験のない世界になぜ飛び込んだのか。

★ずっと野球の世界を出たいと思っていた

「もともとスーツに興味があったというのが一番です。この仕事であれば、業種を問わず、さまざまな人と知り合うことができる。
年齢も職業も立場も違う、いろいろな世界の人の話が聞ける。社長さんもいれば、新入社員もいますから。

僕は、同じ場所で同じことをするのが、あんまり好きじゃないんですよね。
それまでずっといた野球の世界を出たいという思いが強かった。大学に入ったときには海外留学もしてみたいと思っていました」

野球で名を残したことで、できないことがたくさんあった。そこから離れたことによって、別の何かが見えてくるかもしれない。

「これまでやりたいことがあっても、野球があってできなかった。
野球を存分にやれたことは幸せでしたが、制限された部分があったのも事実。だからこそ、野球の世界から出たかった。

プロ野球を目指さないのなら、野球は終わり。野球とは別の世界でやりたいことがたくさんあります。
大学まで野球を続けて、『やり切った』という思いが強いですね」

山根の野球の実力や実績を知る者は、みな口をそろえて「もったいない」と言う。しかし、山根は過去を振り返るつもりはない。

★野球人生に一区切りつけた山根の目標

「まだ新しい世界で実績を残していないので、『もったいない』とか『野球を続ければよかったのに』と言われますが、
10年後に成果を出していれば、そうは言われないはずです。
何年後かに『野球を続ければよかったな』とは思わない自信が自分にはあります。
まずはオーダースーツの仕事をものにして、独立したいと思っています」

野球人生にはひと区切りをつけた。これからは野球とどう付き合っていくのだろうか。

「基本的に草野球はやらないと決めています。よっぽどのことがない限り、いったんは野球と距離を置きます。
でも、野球をやってきたことが僕の武器であることは間違いありません。野球を捨てたわけではありませんから」

高校、大学と濃い野球人生を送ってきた山根の前に、どんな困難が待っているかはわからない。

これまでの経験値ではうまく対処できないこともあるかもしれない。しかし、山根はそれを楽しむつもりでいる。

2018年11月16日 東洋経済オンライン掲載
三菱 全日本テニス選手権 93rd
Mitsubishi All Japan Tennis Championships 93rd

大阪府大阪市・ITC靱テニスセンター
10月27日~11月4日
松田美咲 37期 現:亜細亜大 出場
★女子シングルス
1回戦 10月27日 松田 6-2 西本(島津製作所)
2回戦 10月29日 松田 6-4,6-3 加治(島津製作所)
3回戦 10月30日 松田 5-7,6-1,6-4 田中(安藤証券)
準々決勝 11月 1日 松田 7-5,6-3 秋田(橋本総業HD)
準決勝 11月 2日 松田 4-6,0-6 澤柳(リンクス・エステート)
松田美咲 37期 現:亜細亜大
亜大2年の松田美咲が昨年準Vの秋田志帆を下して4強進出
[第93回三菱全日本テニス選手権]
「三菱全日本テニス選手権 93rd」(賞金総額2850万円/本戦10月27日~11月4日/
大阪府大阪市・ITC靱テニスセンター/ハードコート)の本戦6日目、女子はシングルス準々決勝4試合が行われ4強が決定。
ダブルスも準々決勝4試合のうち2試合が行われた。

松田美咲(亜大2年)の快進撃が止まらない。
ベスト8の中で、ただひとりのノーシードであり、学生の松田が今日も勝った。
第7シードで昨年のファイナリストでもある秋田史帆(橋本総業ホールディングス)をストレートで下し、ベスト4進出を果たした。

左から繰り出す重いスピンを左右に打ち込んでいく。
第1セットを4-5から3ゲーム連取して7-5で奪うと、その迫力がいよいよ増した。
第2セットは一気に3-0とリードを広げ、あとはサービスキープに成功の6-3で試合を終わらせた。

「第1セットは相手のペースにはまってしまったけど、第2セットからは自分のプレーがしっかりとできた」と松田。
以前は「とにかく打ちまくっていた」が、攻守のバランスが抜群によくなった。
「周りが見えて、落ち着いてプレーができるようになった」から、それができるのだろう。

次々とプロをなぎ倒しての4強進出には「ちょっとびっくりする部分もあるけど、残りの試合も勝ちたい」と目を輝かせた。
「インカレ決勝、王座決勝と、自分のプレーができなかった悔しさ」を全日本にぶつけている。
2009年の奈良くるみ(大阪産業大付高3年)以来となる学生チャンピオンまで、あと2勝に迫った。

2018年11月2日 Tennis Magazine ONLINE掲載
鈴木健 8期
オーティズ、クロマティ、鈴木健…歌い継ぎたい魅惑の「ホラ吹き応援歌」

埼玉西武ライオンズ、10年ぶりのリーグ優勝おめでとうございます。
わたしが遊軍記者や番記者として所沢に通っていたのは、11年から13年までの3年間。
残念ながら優勝を見届けることはできなかったけれど、チームには裏方さんも含めて魅力的な人々が集っていた。
ファンも熱狂的で、独特の空気が渦巻く空間がとても好きだった。

1日の朝、スポーツ各紙の優勝企画を読み比べながら、強力打線の中心に座る4番・山川穂高の存在の大きさにあらためてうなった。
本紙に寄せた手記では「ホームランは『正義』」との思いを打ち明けてくれた。実にいい言葉だ。
いつの時代でも子供たちはホームランを見るために、球場へ足を運ぶ。

思えば13年。日本ハムとの開幕戦で、4番はホセ・オーティズだった。
主砲の中村剛也がオフに左ひざを手術したために出遅れ、代役を務めたのだ。
オーティズから山川へ-と考えると、5年間はずいぶん長い歳月なのだなと思う(ちなみにこの試合で鮮烈デビューを飾ったのが、
ファイターズの黄金ルーキー・大谷翔平で、西武の先発投手は岸孝之だった。時代は変わる)。

このオーティズの応援歌がまた良かった。
「ドミニカの空まで飛ばせ」という歌詞だ。いや、無理でしょ。球場にそんな正論はいらないし、似合わない。
それよりも、青く澄みわたったドミニカ共和国の空を脳内にイメージしたい。スケールの大きな世界観。作詞した方、あなたは最高だよ。

このような実現不可能だけれども愛おしい歌詞を「ホラ吹き応援歌」として称え、未来永劫歌い続けることに決めた。
「ホラ吹き応援歌」は歴史も深く、昭和からある。
例えば巨人・クロマティ。「お前が打たなきゃ明日は雨」。打席結果が翌日の天候を左右するって、素敵じゃないか。

史上最強のホラ吹き応援歌って何だろう。
ある日、ツィッター上でつぶやいていたら、敬愛するジントシオさんが反応してくれた。
西武・鈴木健の応援歌だ。「地球を脱出 ホームランボール 引力に負けるな ライナーホームラン」。これだ。
もはや「ドミニカへ飛ばせ」の比じゃない。

昭和から平成、そして新たな時代へ。「ホラ吹き応援歌」を歌い続け、未来へと継承していきたい。

あなたの好きな「ホラ吹き応援歌」は、何ですか。

2018年10月2日 スポーツ報知コラム掲載
清水隆行 12期 現:U-15日本代表監督

第4回 U-15 ワールドカップ
8月10日~19日
開催地:パナマ


3位決定戦
8月20日
日本3-6台湾

清水隆行監督
「日本ではこういう形での連戦連戦というのはなく、大変だったと思いますが、懸命に全力で堂々と戦ってくれました。
選手たちに感謝したいです。(今後に向けて)間違いなく、この世代のトップレベルの選手たちが集まっていますが、
まだまだ技術すべてに課題があります。技術的なところもそうですが、考え方の部分ですね。
このケースはフルスイングで思い切っていっていいケースなのか、
自分を押し殺してでも何とかしなくてはいけないケースなのかどうか。
技術ももちろん向上させていかないといけませんが、そういう部分も今後勉強していかないといけません。
投手も球数制限がある中で、連投になったり負担をかけた投手もいますが、課題として無駄な四死球が多く出た。
それが実際に失点につながっていので、それを肌で感じて生かしてもらえればと思います」
侍Japan 公式サイトより転載


スーパーラウンド
8月17日 0:00 日本5-2台湾
清水隆行監督
「序盤はかなり苦しんだが、劣勢の中攻守においてねばり強く戦ってくれた。6回は安打もあったが、それ以外の四球や死球、内野ゴロでの得点など見事な攻撃をしてくれた。選手たちのつないでいこうという意識の結果だと思う。大事な試合が続くが、明日も同じ気持ちでやっていきたいです」
侍Japan 公式サイトより転載
8月18日 8:00 日本3-7パナマ
清水隆行監督
「先制はできましたが、そのあとなかなか流れを持ってくることができませんでした。(打線は2安打だったが)内容的には強い当たりも出ていましたし、もう1歩という打球もありましたが、相手の好プレーに阻まれてしまいました。(地元パナマの大歓声が続く中での試合だったが)こういう雰囲気は始まる前から分かっていたこと。大きな影響はなかったと思います」
侍Japan 公式サイトより転載
8月19日 4:00 日本2-8アメリカ
清水隆行監督
「何とかロースコアでという思いではいたのですが、結果としてなかなか凌ぎ切ることができませんでした。 体格やパワーは米国のほうが上だと思うが、日本にはスピードや小技があると思っています。ただ、今日はそれをうまく発揮できませんでした。決して埋められない差ではなく、一つひとつのプレーの精度を上げて埋めていかないといけません。次はこのチームで最後の試合になるので、全力で勝ちにいきたいです」
侍Japan 公式サイトより転載

グループ予選

グループB
8月11日 0:00 日本4-2オーストラリア
清水隆行監督
「(試合前は)ここまでしっかり準備をしてきているので、緊張感を受け入れながら自信を持ってしっかりやっていこうという話をし、その中で犠打、走塁をしっかりやってくれました。勝ちという結果が出て、また明日以降、少し違った精神状態で入れるかなと思います」
侍Japan 公式サイトより転載
8月12日 0:00 日本11-1オランダ
清水隆行監督
「先制を許して少し重苦しい流れになったが、本当に選手が落ち着いて我慢強くプレーしてくれた結果が逆転につながったと思います。一番良い場面で木本というのは、本人にも伝えていて、まさにそうなりました。大会初打席の緊張感ある中で思い切りよく自分のスイングをしてくれました。それぞれがいい打撃ができたと思いますが、まだ課題があるし、走塁面でもミスがあったので、そういう部分は今後考えていかないといけない。(キューバ戦に向けて)全員で1つのアウト、1点を取りに行くスタイルを続けていきたいです」
侍Japan 公式サイトより転載
8月13日 8:00 日本7-9キューバ
清水隆行監督
「キューバはスピード、パワーに加え、小技もある。少し対応しきれなかった部分もあったかなと思います。本当に劣勢の中で全員がよく繋いでプレッシャーをかけるところまで持っていくことができました。なんとかまだ次のチャンスがあるので、この差を埋めて、越えられるようにやっていきたいです」
侍Japan 公式サイトより転載
8月14日 8:00 日本13-7ドミニカ共和国
清水隆行監督
「選手たちがよくまとまって頑張ってくれたと思います。(7盗塁について)盗塁はチャンスがあればどんどん行こうと言っていました。(福原について)彼にはオールマイティーな働きを期待していて、犠打も上手だし、走塁も打撃も見事でした。本当に期待に応えてくれたと思います。(明日以降について)これまで通り、まだまだ先はあるので、1戦1戦、全員の力で戦っていきたいです」
侍Japan 公式サイトより転載
8月15日 8:00 日本20-0南アフリカ
清水隆行監督
「打線は良い形で安打も出ているし、走塁面でも良い部分は出ています。ただ、まだ粗い部分もあるので、そこは今後修正していきたいです。投手陣はそれぞれの登板機会の中で良い役割を果たしてくれました。四死球が多いのは課題で改善していかないといけません」
侍Japan 公式サイトより転載
※開始時間は日本時間(パナマ 時差-14時間)
清水隆行 12期
元巨人・清水監督、U―15ワールドカップへ「全員野球」で世界一
「第4回WBSC U―15ワールドカップ」(8月10日開幕・パナマ)に出場する
侍ジャパンU―15代表の清水隆行監督(44)が5日、ジャイアンツ球場で会見し、世界一を目標に掲げた。

元巨人の清水監督は「レベルが上がれば大量得点というのはなかなかない。
全員で1点をとって、1点を守って、という野球を理想に戦いたい」と抱負を語った。
メジャー経験もある高橋尚成コーチ(43)は「(海外での大会で)日本がどれだけ恵まれているかを
感じてくれれば、野球人としてプラスになると思う」と、異国での経験によって選手が心身両面で成長することを期待。
会見に出席した池田主将は「世界一になって清水監督を胴上げしたい」と力強く決意を口にした。

2018年8月6日 スポーツ報知掲載
あの夏プレーバック 埼玉勢甲子園編
1986年 第68回全国高校野球選手権
背番号11 輝く「魔球」
亡き恩師に捧げる4強

準々決勝

浦和学院
高知商

★強打線とWキャスト
浦和学院の代名詞と言える「強打」が印象付けられたのは、いまから32年前の夏。
後にプロ野球の西武とヤクルトで189本の本塁打を放った2年生の4番鈴木健を筆頭に半波和仁、伊藤弘之の
両3年生を加えたスラッガートリオをそろえ、1986年の第68回全国高校野球選手権で、初出場ながらベスト4入りした。

当時の打線は「浦学史上最高」との呼び声の高い。
なにしろ、埼玉大会、甲子園大会を通じて12試合戦い、計15本塁打、86打点をたたき出したのだから。

しかし、決して、打つだけのチームではなかった。躍進には、強打とともに背番号11を背負った2年生左腕、谷口英規の快投があった。
“伝家の宝刀”を駆使して、全国の強打者たちを翻弄した。
あの夏、チームを率いた名将・野本喜一郎が死去。
「野本さんと出会えてなかったら、あの投球はできなかった」。自身の才能を引き出してくれた亡き恩師に捧げるピッチングだった。

★落ちるシュート
上尾を春夏合わせ6度の甲子園出場に導いた野本が84年に浦和学院の監督に就任して3年目。
野本は「3年目で甲子園を狙えるチームをつくる」という公約を見事に果たす。
これまで県大会3回戦が最高だったチームが個性を生かす野本の指導で花開く。埼玉大会で初優勝。
強打もさることながら、2年生投手の急成長が躍進の原動力だった。

春までのチームのエースは3年生の木村健治だった。
初優勝した春季県大会で谷口は準決勝、決勝に登板していない。谷口の持ち球は最速130キロほどの直球とカーブ、スライダー。
本人いわく、「普通の左投手」。しかし、ある“魔球”を体得したことで、絶対的な投手へと変貌する。

きっかけは野本の助言だ。春季大会後、谷口は野本からシュートボールを教わる。
それに改良を加えたのが当時、東洋大4年生でコーチに来ていた森士(現浦和学院監督)。投手出身の森は上尾時代の野本の教え子。
自身もシンカーを放っていたことから、シュートの握りから投げる際の指の『抜き方』を伝授した。

上から投げると、逃げながら沈んでいく、右打者に有効で独特な軌道を描いた。
当時は投げている投手はおらず、『落ちるシュート』と表現された。
練習試合で試した谷口は「使える」と確信。スクリューボールの誕生である。

★突然の悲報
春の関東大会後、野本は病気で入院した。
当時部長だった和田昭二が指揮を執ったが6月、常総学院(茨城)との練習試合に野本が入院先から訪れた。
入院中、試合に顔を出したのはこの一度きり。谷口の投球を自らの目で確認した野本は和田に「夏は谷口でいく」と告げた。
谷口は、この話を最近になって知った。

指揮官の目に狂いはなかった。埼玉大会が開幕すると、谷口は全7試合中6試合で先発。計42回、防御率1.71と期待に応えた。

しかし、ナインに突然の悲報が届く。
埼玉大会からベンチに入れなかった野本は、甲子園開幕日の8月8日午後11時2分、膵臓出血でこの世を去った。64歳だった。
初戦の泉州(大阪)戦前日の9日に知った選手たちは号泣。
谷口は「野本監督のためにという思いはもちろんあった。よりチームが一つになった」。

「僕のピッチングを見ていてください」。
谷口はベンチに置かれた野本の遺影にこう誓って泉州戦のマウンドに立った。
初陣の緊張をものともせず11奪三振、3失点で完投。打線も全員安打となる18安打で10得点を挙げて快勝した。

★変幻自在
2回戦の宇都宮工(栃木)は4-0で快勝し、谷口は5安打完封。スクリューが威力を発揮し「狙って空振りを取れた」と11奪三振。
主将で女房役の黒須隆も「僕が谷口にリードされた感じ」と後輩に脱帽した。3回戦の広島工戦でも4-1で完投勝利。

準々決勝の高知商戦(4-0)は4安打に抑え、2度目の完封劇。この試合は巧みな“投球術"が光った。
高知商の4人の左打者を意識。スクリューの割合を減らし、走っていた直球を増やして勝負した。
右打者には内角を突き、外角に落とす。走者を背負うと早めにスクリューを投じ、カウントを優位に進めた。

まさに変幻自在。決め球にもなり、カウントも稼げるスクリューは投球に幅をもたらした。
一塁を守っていた鈴木も「頭の良い投手で緩急をうまく使っていた」と絶賛した。

チームは準決勝で松山商(愛媛)に敗れたが、埼玉県勢にとっては、75年の上尾以来の4強入り。
谷口は「あのボールがあったからこそ、あそこまでの成績を残せた」。

★結果より大切なこと
谷口さんには、あの夏、一つの心残りがあった。

甲子園初出場で4強は立派な成績。
だが松山商との準決勝では4-1の六回に一挙10失点し、谷口さんもこの回、甲子園で初めてマウンドを譲った。
競った場面で精神的なもろさが出て、集中力が切れてしまった。
「亡くなった野本監督に申し訳ない気持ちだった。もっといい報告がしたかった」

甲子園から帰ってきてからは肩痛に悩まされた。秋季県大会は第1シードながら初戦で所沢に敗れ、翌春は南部地区大会1回戦で負けた。
春、谷口さんは左肩が回せないほどで、投げられなかった。

春季大会後は「夏にもう一回、甲子園に行ってやる。その意地しかなかった」。
東京から通っていた谷口さんは当時、投手コーチだった森士さんの、さいたま市内の実家に下宿。
「夜の浦和競馬場を走りましたね。中が通れるようになっていたので」という秘話を明かしてくれた。

最後の夏も決勝では痛み止めの注射を2本打って先発。
118球を投げ切り、チームを埼玉大会2連覇に導いた。
「腕がちぎれるまで投げてやる」。支えたのはエースの意地。貫いてきた信念が実を結んだ。

背番号1を付けて帰ってきた甲子園では、大リーグでも活躍した伊良部さん(故人)の2ランなどで
尽誠学園(香川)に初戦で敗れたが、どこか晴れ晴れとしていた。

当時の谷口さんは「肩の調子は最高でした。思い残すことはありません。この1年は肩の故障で苦しかったけど、
それを乗り越え、甲子園に来られたことは大きな自信になりました」と言葉を残した。

「やりたいことはできて、すがすがしかったですね」。31年前を振り返った谷口さんの今の思いだ。
そして「自分の足元を見つめる意味でも、いい1年間でした。今思えばですよ」と締めくくった。

結果ももちろん大事だが、それ以上に過程が大事-。高校野球の原点を、谷口さんの歩みが教えてくれた。

★野球への恩返し 今も 上武大 谷口英規監督
甲子園では投手で輝いた谷口さんは高校卒業後、東洋大の3年次に野手に転向。
打者としての素質を開花させた。

社会人野球の東芝に進むと1993年のアジア選手権で日本代表に選ばれ、同年の都市対抗大会では日本石油の補強選手として、
初戦から決勝までの5試合連続6本塁打を放って優勝に大きく貢献。最優秀選手に贈られる橋戸賞を受賞した。

98年に選手を引退後は東芝で社員として働いた。
半導体の営業を担当し、主任として仕事を覚えてきた時に上武大からオファーが舞い込んだ。

「いずれは、野球の指導者をやってみたいとは思っていた」が、未知の地に飛び込むか迷った。
「やったらいいんじゃない」。背中を押してくれたのが妻の幸子さんだった。

30歳だった2000年1月に監督に就任。
当初はやんちゃな選手が多く、野球の技術よりもまずは寮生活やあいさつ、マナーから着手した。

心の強さを植え付け、13年に12度目の挑戦で全日本大学選手権を制して悲願の日本一に。3度宙に舞い、男泣きした。
母校の浦和学院が春の選抜甲子園で初の全国制覇を成し遂げた、その年の6月だったのも何かの縁だった。

プロ野球選手を11人輩出するなど上武大を強豪に育て上げた谷口さんの原点は、やはり高校時代。
「甲子園に出られなかったら野球をやめて、板前になる予定だった。親戚の店を継ごうかなと」

それが2年連続で甲子園に出場。
2年生の時はベスト4に進出し、「人生を変えてくれた場所」と敬意を表する。
「本当に高校野球には感謝しかない。何か、野球に貢献できればいいし、野球に恩返しがしたいですね」。
谷口さんが指導者を志したきっかけであり、今も変わらぬ信念だ。

谷口英規(たにぐちひでのり)
上武大野球部監督。浦和学院高では2年連続で夏の甲子園に出場。
2年次には全5試合に先発し、2完封するなど4強入りに貢献した。
東洋大3年次に野手に転向。東芝に進み、1993年の都市対抗大会では補強選手として
5戦連続6本塁打を放ち橋戸賞を受賞。94年にIBAFワールドカップ日本代表で銅メダルを獲得。
2000年1月から現職。13年には全日本大学選手権初優勝に導いた。
左投げ左打ち。熊本県出身、本庄市在住。48歳。

2018年6月16日 埼玉新聞掲載
鈴木健 8期
歴代ユニフォーム・優勝ペナントの展示やOBトークショーなど盛りだくさん!
入間市博物館で「西武ライオンズ40周年記念展」を開催

入間市(市長:田中龍夫)、入間市博物館(指定管理者:いるまミュージアムパートナーズ代表(株)フクシ・エンタープライズ)、
株式会社西武ライオンズ(代表取締役社長:居郷肇)は、2018月6月14日(木)から7月1日(日)の間、入間市博物館(埼玉県入間市二本木100)にて、
フレンドリーシティ(※1)との取組みでは初となる“「西武ライオンズ40周年記念展」~西武ライオンズのあゆみと未来~”を開催します。

本記念展は、西武ライオンズが埼玉県所沢市に本拠地を構えてから40周年を迎えること、また、2015年3月に両者の間で包括連携協定を締結し、
フレンドリーシティである入間市との連携事業の一環として行うものです。期間中は過去のユニフォームや写真、優勝ペナント、
現在進めている球場改修工事の完成イメージ図を展示するほか、過去の歴史と今後の計画などを記した「タイムトンネル」の様な展示を、
ご来場のお客さまはお楽しみいただけます。

さらに、6月23日(土)は西武ライオンズOBの鈴木健氏を迎えてのトークショーや、ライオンズキッチンカーも登場し、
メットライフドームで販売している商品をお召し上がりいただけます。
そのほかにも会場内では、「西武鉄道運転席模型や部品展示」やお子さまも楽しめる「巨大電車レイアウト展示・運転体験」などの
実施も予定しており、ライオンズファンのみならず多くの皆さまにお楽しみいただける記念展となっています。

※1フレンドリーシティとは…株式会社西武ライオンズと連携協力に関する基本協定を締結している市町です。
本締結協定は、各市町及び当社が持つ資源を有効に活用し、協働して事業に取り組むことを通じて、
「地域社会の発展」や「市民福祉の向上」などに寄与することを目的に行うものです。

★鈴木健氏 プロフィール
投打 右投左打
生年月日 1970年1月13日
経歴 浦和学院高~西武ライオンズ~ヤクルトスワローズ~東京ヤクルトスワローズ
ドラフト 1987年1位

埼玉西武ライオンズ公式サイトより転載
私と高校野球
「松坂世代」の宿命 浦和学院・松本将太さん(37 19期)

私の高校野球生活は、まさに“松坂フィーバー”真っただ中。松坂大輔擁する横浜高校に勝てない限り、全国制覇など不可能でした。

チームのスローガンは「もう一度松坂と」。

秋季関東大会準決勝で横浜高校に大敗を喫して以来、チームは松坂に勝つためだけに練習をしてきたと言っても過言ではありませんでした。

つらく苦しい練習の日々。県内では勝って当たり前と言われ、相当なプレッシャーがのし掛かっていたことを鮮明に記憶しています。
結果として、その後の大会は横浜高校と対戦する前に負けてしまい、リベンジを果たせないまま高校野球生活を終えることとなりました。

今、当時のことを考えると、松坂にとらわれ過ぎて、目の前にある一番大切なものを完全に見失っていたのではないかと思います。
しかし、それもまた、松坂大輔のすごみではなかったのかと痛感します。

松坂大輔がプロ野球の試合で活躍する姿を見るたびに、私の高校野球生活が鮮明に浮かび上がってきます。

2018年5月28日 埼玉新聞掲載
頂点極め心に糧 86年浦和学院の選手たちはいま
1986年の第68回大会で、初出場の浦和学院はベスト4に勝ち進んだ。
当時の主将、4番打者、エースはその後、野球でそれぞれの「日本一」に輝いている。歩みをたどり「いま」を訪ねた。

★主将・黒須隆さん
主将で捕手だった黒須隆さん(49)は神奈川県厚木市にある日産自動車のテクニカルセンターに勤務する。
約1万5千人が働き、商品や技術開発などを担う同社最大の拠点。黒須さんは「企業人」としても、リーダーシップを発揮する立場にいる。

地域貢献なども守備範囲にする総務系の課長で、センター全体の防災組織の事務局長でもある。
「リーダーは目配りと気配り、責任と判断力です」。
瞬時に的確な判断を下す捕手としての経験を仕事に重ねたとき、「野球人」だった黒須さんの自負がみえた。

浦和学院から東都大学リーグの東洋大へ進み、日産に入社。1996年アトランタ五輪代表となり銀メダルを獲得した。
社名を背負って戦った都市対抗野球で「日本一」になったのは98年。決勝の川鉄千葉戦は15―3の大勝。
先発捕手として5打数2安打の活躍だった。

「野球では負けて泣いてきた。いつかは勝って泣きたい。その願いが訪れたのが、この時です」

ユニホームを脱いだあとは社業へ。国内各地にある車のテストコースの防災なども担当する。
寒冷地試験場がある北海道の陸別町を訪れる時は、子どもたちを集めて野球教室を開く。
日産の社会貢献事業の一つで、黒須さんだからできる仕事だ。

「野球はいろんな人との『出会い』をくれる。今は感謝しかありません」

★4番打者・鈴木健さん
4番打者だった鈴木健さん(48)は、障害児らの「先生」。さいたま市主催の障害者スポーツ・レクリエーション教室で
毎年、野球を教えている。「教える側が感動する。だって、教室が始まる2時間前から待っている子がいるんだ」

1987年のプロ野球ドラフト会議で西武が1位指名。越谷市で過ごした少年時代に抱いた「プロになる夢」を実現した。
「子どもたちには、何でもやりたいことを見つけてほしい。途中であきらめるな。夢はきっとかなうから」

高校時代に放った本塁打は通算83本。そんな実績もプロではすぐに通用しない。
入団当時の西武には清原和博、石毛宏典、辻発彦ら強力なレギュラーがいた。
2軍で成績を残し1軍に上がっても、出番がないまま逆戻りの悔しい経験をしている。

浦和学院では、故野本喜一郎監督に自分で考えることを教えられた。
投手の配球を研究し準備する。数少ない1軍での打席で結果を出してはい上がり、92年の日本シリーズ3連覇などにも貢献した。
障害者とのつながりは、西武からヤクルトに移籍し、球場に招待するようになってからだ。

テレビでの野球解説のほか、全国各地の少年野球教室にも駆け回る。
「現役時代の経験を伝えたい。自分にしか教えられないことがあると思う」。
野球は楽しいと知ってもらうため、指導の工夫も欠かさない。日本球界のすそ野を広げている。

★エース・谷口英規さん
完封勝利を挙げた投手の谷口英規さん(48)はいま、群馬県伊勢崎市にある上武大学の硬式野球部監督。
スポーツマネジメントを教える教授でもある。「人を育てるのは、自分の人生のミッション(使命)と思うようになった」。
大学の野球場で静かに話す。

全日本大学野球選手権を上武大が初制覇したのは2013年。
群馬県のスポーツ賞顕彰で「優秀選手賞」を団体として初受賞している。しかし、そこまで自身の歩みが順調だったわけではない。

東洋大学時代は投手としての限界を感じ、打者に転向。
社会人の東芝に進んで活躍しているが、30歳そこそこで現役を引退。
「野球しか知らない自分の小ささを思い知らされた」。東芝の社業で半導体を売る仕事もしている。

大学時代の縁で上武大で教え始めたのが2000年。サラリーマンとして苦労した経験が生きてくる。
「うまくいかずに苦しんでいる学生の気持ちが分かるようになっていた」。
上武大の野球部は部員が200人を軽く超える屈指の大所帯。
マネジャーの一人は「一人ひとりのことをよく見てもらえている」と監督に寄せる信頼を語る。

高校時代を振り返り、谷口さんは「人生で甲子園は一瞬。しかし、野球がなければ今の自分はない。
人生を変えるきっかけになったのは確かだ」。

野球の高みを目指す挑戦はなお続いている。

★監督・和田昭二さん
監督だった和田昭二さん(59)はいま、体育の教師で浦和学院ゴルフ部の顧問。
野球部の森士(おさむ)現監督(53)に後を託してから27年近くになる。
そんな和田さんのところに、甲子園出場投手だった谷口英規さんから電話があったのは2013年6月のことだ。

あいにく、電話にはすぐ出られなかったが、上武大硬式野球部監督になっていた谷口さんからの着信と分かって用件を察した。
決勝に進んでいた全日本大学選手権での優勝を伝えてきたのだ。
折り返し電話し、日本一に声がはずむ谷口さんの労をねぎらったのを和田さんは覚えている。

甲子園で戦った監督と選手には、何年経っても切れないつながりがある。
「当時の選手たちがその後どうしているか、活躍の様子を知ることほど教師としてうれしいことはない。動向はほとんど把握している」と和田さん。

うれしい便りだけではない。甲子園で先発した9人のうち2人が既に他界しているという現実もある。
教え子の死を知ることほどつらいものはない。葬儀に参列した和田さんは冥福をただ祈るばかりだったという。

2018年5月17日 朝日新聞DIGITAL掲載
100年の心・白球がつなぐ絆 1915~2018
考える力 強打者の原点
名将の無言の教え 礎に
鈴木健さん 野球解説者 浦和学院高出
1986年、夏の甲子園。”超高校級”と形容された強力・浦和学院打線で4番に座り、
チームを初出場でベスト4に導いたのが鈴木健さん=現野球解説者=だ。
越谷市出身、地元・埼玉が生んだスター選手は、どの様にして左のスラッガーへと成長していったのか。
その原点は高校時代の3年間にあった。

「鈴木健」の名が一躍全国に知れ渡ったのは、2年生の夏だった。

埼玉大会の初戦、吹上との2回戦で1イニング2ホーマーを含む3打席連続本塁打をマークするなど7試合で
5本塁打をかっ飛ばすと、甲子園でも5試合で20打席9安打。
毎試合安打を記録し、記念すべき初勝利(10-3)となった泉州(大阪)との1回戦では4安打3打点の固め打ち。
4-0で快勝した準々決勝の高知商戦では、右翼席へ甲子園初アーチを描いた。

初出場でベスト4の立役者。2年生ながら堂々としたたたずまいが印象的だったが、
当時を振り返り「2年生の時は無我夢中で、実は余裕がなかった」という。
「春も県大会を勝ち、チームは強かったけど、甲子園に行くのは初めてのこと。
とにかく無我夢中でやっていたので、あまり記憶に残ってないですね」と意外な答えが返ってきた。

3年次にも甲子園に出場し、1988年にドラフト1位で西武に入団した鈴木さん。
2003年にはヤクルトに移籍し、プロ19年間で1446安打、189本塁打。
ベストナインも西武、ヤクルトで1度ずつ獲得した。

★基盤の3年間
プロで19年間プレーできた要因について「"鈴木健”という一つのものをつくった初めての場が高校だと思う。
そこで原点をつくり上げられたからこそ、プロにも行けたし、プロでも長く野球ができた。基盤になった3年間」。
そう語る上で、なくてはならない存在がいた。浦和学院高時代の恩師で泉州戦2日前の開会式当日に逝去した野本喜一郎監督だ。

名将と評される野本監督は積極的にアドバイスするタイプではなく、鈴木さんは「『ああしろ、こうしろ』と言われた記憶は無い」と回想する。

だからこそ、「考える力の大切さを野本監督から学んだ」と実感を込める。
1年次から長打力には定評があり、ライト方向へは大きな放物線を描いていた。一方でレフト方向、つまり流し打ちでは飛距離が出なかった。
そこで「逆方向にホームランを打つにはどうしたらいいか。とにかく自分で考えた」。

体力的な問題と思えば筋力トレーニングをして、パワーアップ。
技術面だと思えば、さまざまな打ち方、腕の出し方を試してみた。
「いろいろな方法を取り入れ、『これ、いい感じだな』と思ったら続けた」。
この繰り返しで強打者・鈴木健はつくり上げられ、高校通算83本塁打を放った。
養った「考える力」は結果が出なければ職を失う、厳しいプロの世界でも生きたと確信している。

★次代への思い
野球解説者の傍ら、年間50回ほど小中学生への野球教室も実施している鈴木さんは
「興味を持ってもらって、『野球ってこんなに楽しいんだ』と長く続けてほしい」と褒めながら、時に笑いを入れながら指導する。
と、ともに「野球は感性が大事。自分の感覚を練習の中で早く見つけましょう」。
自らの成功体験を踏まえ、野球少年たちに常々、伝えている言葉だ。

この夏、100回大会を戦う埼玉球児へは「3年生にとっては高校野球の集大成。負けたとしても、学べることはたくさんある。
それを今後の人生にどう生かすか。そっちを大事にしてほしい」とエールを送った。

★鈴木健(すずき・けん)
プロ野球の西武、ヤクルトで活躍した左のスラッガー。現野球解説者。
浦和学院高では2、3年次に全国高校野球選手権に出場し、2年次はチームの4強入りに大きく貢献。
高校通算本塁打は当時の日本最多記録となる83本をマーク。
1988年に西武にドラフト1位で入団すると、97年、ヤクルトに移籍後の2003年にそれぞれ三塁手でベストナインに輝く。
プロ19年間で通算189本塁打、右投げ、左打ち。越谷市出身、48歳。

2018年5月16日 埼玉新聞掲載
鈴木健 8期 現:野球解説者
「秋山幸二氏の“大ファール”打法は衝撃だった」
鈴木健氏、西武黄金時代の思い出を激白

非凡な打撃センスを武器に西武とヤクルトで19年間のプロ生活を送った鈴木健氏が、「西武黄金期時代(1986~1994年)」の
主力として活躍した秋山幸二氏独自の練習法に言及。「“大ファール”打法は衝撃的だった」と振り返った。

「振り遅れない」「ポイントを前に」というキーワードは打撃を語るうえで頻出する言葉だが、
実際に振り遅れないためには、どう対処すればよいのだろうか。その答えが、“大ファール”打法にあるという。

この問題について鈴木氏は「バッティングでは力めば力むほど振り遅れるので、打ち返すという意識ではなく、
相手の力を利用する意識の方が適切。詰まるということは、コンマ数秒ほど体の中でさばいている結果ですから、
よりコンパクトに振ればいい。コンパクトは『小さく』ということではなく『後ろを小さく、前を大きく』というイメージです。
また、ボールを見る時間を長くする必要があるので、始動を早めることも有効です」と説明。

さらに西武時代に目にし、自身も衝撃を受けたという秋山幸二氏の練習法にも触れると
「バッティング練習の際、明らかな大ファールをレフトスタンドに連発していました。レフトというよりは、もうブルペン方面です。
あまりに驚いたので聞いてみると『ポイントを前にするのに、そこで打たないと、バットの面がボールに向かないだろ』と一蹴されました」
と衝撃の記憶を辿り、おもむろに最近のライフワークとしている「子供たちへの野球教室」の例を挙げて続けた。

「子供たちに『ボールをなるべく呼び込んでバットを振る』ように話をすると大抵できるのに対して、
『ボールが来る前にバットを振ってみなさい』と話すと、ほとんどの子供はバットが出てこない。実はそれくらい、“ポイントを前に置く”のは
難しいことなんです。プロの打者でも同じ。スランプになるときは決まって、ポイントが体に近くなり、バットが出なくなる時なんです」

トレーニングへの応用はもちろん、野球観戦の際の参考にしてみてはいかがだろうか。

2018年5月16日 AbemaTIMES 掲載
清水隆行 12期
【侍ジャパン】U15W杯の監督に清水隆行氏、コーチに高橋尚成氏
NPBエンタープライズは27日、8月にパナマで開催される「第4回WBSC U―15ワールドカップ」に
出場する侍ジャパンU―15代表のコーチングスタッフが以下の通り決定したと発表した。

▽監督 清水 隆行(35)=巨人OB=

▽コーチ 高橋 尚成(36)=巨人OB=
▽同 徳元 敏(40)=東練馬リトルシニア=
▽同 堀田 将司(41)=愛知港ボーイズ=
※かっこ内の数字は背番号

清水監督は「日本野球の強さを世界に示すだけでなく、日本野球の将来のため中学硬式野球5リーグの結束が
より強固なものになるよう、大会を通じて職務を果たしていきます」とコメント。
高橋コーチは「可能性を秘めた原石の集まりですので能力を最大限高められるよう指導にあたります」と意気込みを示した。

2018年4月27日 スポーツ報知 ネット配信

U-15監督に清水隆行氏、U-12代表選考はネットで公募も
NPBエンタープライズは27日、いずれも8月に開催される野球のU-15とU-12の国際大会に出場する日本代表監督らを発表。
「第4回U-15W杯」(パナマ)の監督に清水隆行氏(44)、コーチに高橋尚成氏(43)ら、
「第10回U-12アジア選手権」(台湾)の監督に仁志敏久氏(46)=いずれも元巨人など=が就任した。

U-15代表は5月12日に千葉、同19日に奈良、同26日に熊本でトライアウトを行って選考。
U-12代表は全日本軟式野球連盟の各都道府県支部からの推薦と、動画をアップする一般公募で選出する。
一般公募は2014、16年に続いて3度目で、5月1-29日に侍ジャパン公式サイト(http://www.japan-baseball.jp/)内で募集する。

2018年4月27日 サンケイスポーツ ネット配信
第4回 WBSCU-15 ワールドカップ
大会期間:2018年8月10日~8月19日
開催地:パナマ

出場する国と地域
グループA
パナマ、アメリカ、チャイニーズ・タイペイ、ブラジル、ドイツ、中国

グループB
日本、キューバ、オーストラリア、オランダ、ドミニカ共和国、南アフリカ
2017年
赤坂和幸 28期 現:中日広報
松坂大輔の復活支える「サカス」広報の多忙な毎日
「平成の怪物」の中日加入で一番多忙なのは、この人で間違いないだろう。赤坂和幸広報(28)。
昨年限りで現役を引退し、球団広報に転身した。
じっくり一から勉強を…なんて計画は、先月23日の松坂大輔投手(37)のドラゴンズ入団により吹き飛んだ。
初めて迎えるキャンプは、まるで“専属広報”のように、大忙しの日々を送っている。

まず、松坂のすべての練習に帯同する。
球場、ブルペン、陸上競技場など、ファンとの混乱が起きないよう、細心の注意を払う。
3人いる警備員との綿密な打ち合わせも、その一つ。
移動は基本的にはワゴン車で行うため、自ら警備員と交通整理を行うこともしばしばだ。

サイン会でも大活躍。松坂が書きやすいように、ファンの持つユニホームを広げたり、色紙やボールを手渡ししたりと、欠かせない。
松坂も「サカス」(TBSがある複合施設「赤坂サカス」が由来)と呼んで、全幅の信頼を置いている。
「やっぱり、あれだけの実績を残された方ですからね。一緒にいられて光栄ですよ」。新米広報のその表情は充実感でいっぱいだ。

あくまで「専属広報」ではないため、背番号99が練習を終えてホテルに戻ると、今度は通常業務が待っている。
現在は、パソコン操作に慣れることに必死だ。
キャンプ序盤のある日、パソコンを立ち上げると「あ、パスワード忘れた。2週間ぶりだから…」と頭をかいていた。

「みなさん、よくそんなにスムーズに操れますね。どれぐらいで、そんなに出来るようになるんですか」と
報道陣に本気で相談するほど苦戦中だ。目標はエクセルとワードを習得し、球団リリースをパソコンから配信すること。
だが、その道のりはなかなか遠い。

松坂のキャンプでの調整はここまで順調。26日には韓国・ハンファとの練習試合(北谷)で実戦初登板を果たした。
338日ぶりの実戦は、2者連続三振を含む3人斬りで無失点。
1軍登板が1試合に終わったソフトバンクでの3年間とは、別人のような好調ぶりを見せている。
復活へ、赤坂広報のサポートはまだまだ続く。

2018年2月28日 スポーツ報知 記者コラムに掲載
清水隆行 12期
巨人OBがコツ伝授 入間で野球教室
読売巨人軍OBが講師を務める「読売さわやか野球教室」が25日、入間市野田の西武市民運動場で開かれた。

元投手の角盈男さん、元外野手の清水隆行さんがコーチを務め、同市内の5チームから集まった小学生球児111人に指導した。
清水さんは、打撃や送球の基本を指導し、「バットを振る時には目線を投手に向ける」などとアドバイス。
角さんは、マウンドから投球する投手のフォームをチェックしながら助言を行った。

野田ドジャースの投手で、西武小6年の永嶋心太郎君(12)は、
「たたきつける感じで腕を振るとより良い球が投げられると教わった。練習でしっかり生かしたい」と話していた。

2018年2月26日 読売新聞埼玉版掲載
清水隆行 12期
読売巨人軍宮崎キャンプ60年記念

ジャイアンツvsホークスOB戦
2018年2月10日(土)
12:30試合開始(10:30 開場予定)
KIRISHIMAサンマリンスタジアム宮崎


 ジャイアンツOB
▼総監督 長嶋茂雄
▼投 手 金田正一・堀内恒夫・江川卓・鹿取義隆・角盈男・定岡正二・
川口和久・宮本和知・水野雄仁・槙原寛己・桑田真澄・
前田幸長・高橋尚成・岡島秀樹
▼捕 手 森祇晶・大久保博元・村田善則・小田幸平・加藤健
▼内野手 王貞治・中畑清・篠塚和典・原辰徳・駒田徳広・元木大介・
仁志敏久・古城茂幸・藤村大介
▼外野手 張本勲・柴田勲・清水隆行(12期)・堂上剛裕
ホークスOB
▼総監督 野村克也
▼投 手 宅和本司・渡辺泰輔・村上雅則・佐藤道郎・上田卓三・
藤田学・山内孝徳・山内和宏・工藤公康・加藤伸一・斉藤和己
▼捕 手 鈴木孝雄・坊西浩嗣・城島健司
▼内野手 小池兼司・国貞泰汎・藤原満・新井宏昌・山村善則・
河埜敬幸・小川史・湯上谷竑志・小久保裕紀
▼外野手 梶田睦・広瀬叔功・門田博光・山本和範・秋山幸二・
岸川勝也・佐々木誠・松中信彦・柴原洋
清水隆行 12期
桑田氏が先発、クリーンアップは松井氏-王氏-原氏
10日・ホークスOB戦スタメン
巨人の宮崎キャンプ60年を記念して開催される「ジャイアンツvsホークスOB戦」
(10日・サンマリンスタジアム)の両軍スターティングメンバーが9日、発表された。

長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督(81)が総監督を務めるジャイアンツOBチームは、
通算173勝の桑田真澄氏(49)が先発、松井秀喜氏(43)、王貞治氏(77)、原辰徳氏(59)がクリーンアップに並んだ。
野村克也氏(82)が総監督のホークスOBチームは、工藤公康ソフトバンク監督(54)が先発マウンドに立つ。

【両軍スターティングメンバー】
◆ジャイアンツOB ◆ホークスOB
1(右)高橋由伸
2(二)篠塚和典
3(中)松井秀喜
4(指)王 貞治
5(三)原 辰徳
6(一)中畑 清
7(遊)元木大介
8(左)清水隆行
9(捕)村田善則
 (投)桑田真澄
1(右)村松有人
2(一)新井宏昌
3(中)秋山幸二
4(三)小久保裕紀
5(左)松中信彦
6(捕)城島健司
7(指)山本和範
8(遊)湯上谷宏
9(二)藤原 満
 (投)工藤公康

2018年2月9日 スポーツ報知 ネット配信
清水隆行 12期
巨人OBが野球教室 久喜で子どもを指導
読売巨人軍OBが講師を務める「読売さわやか野球教室(読売新聞東京本社、YC久喜など主催)が3日、
久喜市総合運動公園の第2体育館で開かれた。元投手の水野雄仁さん、元捕手の佐野元国さん、
元外野手の清水隆行さんの3人が、市内の14少年野球チームから集まった約180人を指導した。

降雪によるグラウンド悪化で、室内での教室開催となった。
走塁練習ではベースの適切な踏み方を、清水さんが技術、安全面からわかりやすく解説。
キャッチボールでは、水野さんがボールの正しい握り方、軸足の使い方、適切なフォームなど、捕球から送球まで
一連の流れを細かく指導した。子どもたちは元選手からのアドバイスを熱心に聞きながら、真剣に取り組んでいた。

2018年2月4日 読売新聞埼玉版掲載
坂元弥太郎 21期 
今成亮太 26期 現:阪神
坂本一将
 29期 現:オリックス

元ヤクルト・坂元弥太郎氏が野球教室「素質いい子がたくさん」

ヤクルト、日本ハム、横浜(現DeNA)、西武で中継ぎとして活躍した坂元弥太郎氏(35)が
スクールのコーチを務めるアスリートプランニング社の野球教室が29日、埼玉・三芳町で行われた。
約100人の小学生が参加し、坂元氏をはじめ、ヤクルト時代の後輩・雄平外野手(33)、そして浦和学院高の2人の後輩、
阪神・今成亮太内野手(30)とオリックス育成・坂本一将内野手(27)が指導。
キャッチボールや打撃指導などの基本動作のほか、投打の直接対決やスピードガン・コンテスト、
ジャンケン大会なども盛り込み、実り多き3時間となった。

坂元氏は、アスリートプランニング社(本社・東京都新宿区高田馬場)の野球スクール「ベースボールワールド」
(本拠地・埼玉県入間郡三芳町竹間沢7-1)でコーチとして、平日午後3時から10時まで幼稚園生~中学生を指導する日々だ。
今年で3年になり、現在の教え子は約70人。この日の年末恒例の野球教室は、現役プロ野球選手とも触れあう絶好の機会とあり、
スクール生以外にも門戸を広げている。「今年も素質がいい子がたくさんいましたね。これからもさまざまな形で、
子供たちの可能性を広げるお手伝いができればと思います」と総括した。

初参加のヤクルト・雄平は「子供たちと、楽しい時間を過ごすことができました。野球に取り組む姿勢や考え方など、
ずっと尊敬していた弥太郎さんと一緒に指導できたことも、刺激になりました」と充実の表情を見せた。
今季は6月に右有鉤骨(ゆうこうこつ)を骨折。離脱するまで40試合で4番に座ってチームを牽引(けんいん)したが、
出場は71試合にとどまった。
「今はもう、屋外でフリー打撃をしています。来季は全試合出場と、キャリアハイを目指します」と完全復活に向け、意気込みを語った。

2年連続参加の阪神・今成は「この年末年始はオフなしでトレーニングに励みます」と無休宣言。
8年ぶりに一軍出場機会がなかった今季を振り返り「来季は年間を通じて一軍にいることが目標です」と話した。
22日に埼玉に帰郷、この日の会場でもある室内練習場で日々鍛錬している。年明け5日にグアム自主トレに出発。
メンバーは阪神・糸井、ソフトバンク・松田、柳田ら超豪華な顔ぶれだ。
「きょう指導した子供たちに試合を観にきてほしいんです。そのためにも無休で取り組み、一軍の座をつかみます」と力を込めた。

坂元氏の高校の8学年後輩にあたるオリックス・坂本は、入団2年目となる来季の飛躍を誓った。
「先輩方がとてもよくしてくださり、楽しく指導できました。今は育成選手ですが、来年また野球教室に呼んでいただけたら、
そのときは二桁の背番号(=支配下登録)で、また子供たちに会いたいです」。
ジャンケン大会では、127番の背番号が入った自分のユニホームを勝ち取った小学生に、「今の気分はどうですか?」と
ヒーローインタビュー風のやりとりをして、会場を盛り上げた。
いつかきっと。自分が支配下選手としてインタビューに答えるその日を、重ね合わせているようだった。

2017年12月30日 サンケイスポーツ掲載
清水隆行 12期
侍ジャパンU-15代表・清水隆行監督手記
「監督席から見えたもの」

監督として初めてユニホームに袖を通した今大会。
中学生を指導することも初めてでしたし、チームが揃って3日後に大会本番を迎えるというのも、長い野球人生で初めての経験でした。
さらに「日の丸」を背負っての戦いですから、その責任や重みは、監督の打診を受けた時から大会を終えるまで変わることはありませんでした。
その中、チームのテーマに「『日本代表』を意識して行動すること。勝つために個々に何ができるか考え戦うこと」を掲げ選手に伝えました。
選手たちがそれらを実行し、日ごとにまとまり団結していく姿は非常にたくましく、全員で掴んだ優勝は格別でした。
監督業の喜びを感じた瞬間でした。

さて初物尽くしの今大会、揃って練習できるのが2日間だけと、とにかく時間が限られた中でチームを作り上げる必要がありましたので、
いくつか工夫も凝らしました。その一つが現役時代を共にした3人の臨時コーチの起用でした。
投手を高橋尚成、野手の守備・走塁を古城茂幸、捕手を加藤健の各コーチが技術指導しつつ、同時に技量の見極めや起用方法の助言をもらいました。
もちろん中学野球の現場から代表チームに就いてくれた投手出身の徳元敏コーチ(東練馬リトルシニア監督)、
野手出身の堀田将司コーチ(愛知港ボーイズ)も中学生指導のプロですから、練習メニューの作成から試合で使うサイン・作戦の絞りこみなど
中学野球の実態に即したチーム運用を担っていただき、短時間でのベストを追及しました。

もう一つは選手とのコミュニケーションです。メンバーは各チームの主力ですが、4番に座っていた選手が日本代表では
下位打線に並ぶことがあれば、当然18人のうち半数はベンチで試合開始を迎えることになります。
チームをサポートしながら途中出場に向けた準備をするという経験は所属チームではなかったことかも知れません。
しかし勝敗は先発だけでなく、控え選手を含めたチーム力によって左右されるもの。場面によっては途中出場の選手の役割が
先発以上に重要になる時もあります。ですから、打順を下位に据えた意図であるとか、なぜ中継ぎや抑えで登板させるのか、選手の特長やゲームで
果たして欲しい役割などを伝えていき、選手が疑問を持つこと無くグラウンドに出て行ける環境つくりを意識して行いました。

最後はキャプテンの選任について。これは工夫というよりも閃きに近いものでした。
キャプテンに指名した南雲壱太君(浦和リトルシニア)に初めて会ったのは松山集合前日の公式記者会見の日。
その時、強く印象に残ったのが論点を整理して自分の考えを話す姿でした。ちょっとした振る舞いや仕草にも中学3年生とは思えない
非常にしっかりしたものを感じさせました。私自身、色々な人間を見てきましたが「人間性」は長く付き合って分かるもの。
会って数時間でそれを印象付けたインパクトは大きく、この時には「キャプテン・南雲」を心に決めていました。

そして迎えた初戦。松山市選抜を相手に先発を託した諸隈一惟君(佐倉リトルシニア)が立ち上がりに制球を乱し失点と、
硬さを見せるものの徐々に試合感を戻すと4回1安打9奪三振と本来の力を発揮。打っても3安打6打点の投打にわたる活躍で、
終わってみれば7回コールドで勝利。二戦目のオーストラリア戦では、前日までの緊張感から解き放たれたナインが
序盤から攻勢をかけ5回コールドで連勝としました。

このチームの集大成を感じさせたのが優勝をかけた第三戦のチャイニーズ・タイペイ戦。

チームをまとめることに奔走していた南雲君は2試合を終え先発出場した選手で唯一無安打でした。
前日のオーストラリア戦終盤には、凡退してベンチに戻ると誰にも悟られないようにグッと歯を食いしばり悔しさを堪えていました。
それがこの日の第一打席で中前にクリーンヒットを放ち出塁、先制点に貢献。
大事な試合でチームを勢いづけるプレーでしたから、彼の苦しみも知っていたナインは自分の事のように喜びました。

途中出場が多かった二村颯馬君(岐阜東ボーイズ)はベンチで一番の盛り上げ役。
しかし時間を見つけてはベンチ裏で素振りを続け出番に備える姿が印象に残っています。
五回、代打を告げた際は、それまでの明るさが一転し無口に。緊張が手に取るように分かりましたが、サードのボテボテのゴロに
全力疾走で失策を誘うと、後続の長打でホームに生還。ベンチ戻ると再び声を枯らしナインに激を送っていました。

小倉奨真君(小山ボーイズ)も守備から試合に入ることが多かった選手。
八回に3点を奪われ相手に流れが傾きかけたその裏、先頭が出塁すると小倉君の打席でバントのサインを出しました。
四回にもバントを決めていて、ここでは打たせてあげたい気持ちもありましたが、嫌な流れを断ち切るため何としても
追加点につなげたかったところ。練習で成功確率の低かったバント失敗が許されない局面できっちり決め、
その後のダメ押し点につなげてくれました。走者を進めベンチに戻ってきた時の安堵の表情と激しいハイタッチを
ナインと交わす姿を見て、こちらも熱くなる部分がありました。

そんなプレーに奮起したのか、失点を許していた抑えの朝井優太君(小山ボーイズ)が追いすがる相手打線を振りきり勝利。
10打数7安打でMVPを獲った度会隆輝君(佐倉リトルシニア)ら先発選手の活躍と、途中出場の全員が役割を理解し
動いてくれた結果の優勝でした。誰一人欠くことはできませんでしたし、短期間で結束を強めて行く様は本当に頼もしいものでした。
胴上げは照れくささもありましたが、素直にありがたかったです。

大会終了後、選手にはU-15日本代表はゴールではなく通過点に過ぎないと伝えました。
投げる、打つ、守るといった基本技術は同年代の周りのメンバーに比べればトップレベルであることに違いありません。
ただ、一つひとつのプレーの完成度はまだまだ低い。「失敗したら負ける」という重圧がかかる局面を今後数多く経験するでしょうが、
その重圧を跳ね返すことが出来る完成度の高い、深みのあるプレーをみんなには追及していって欲しいと思います。
今回「日の丸」を経験した意味は正にそこ。
「成長するためのヒントを得る機会だった」と捉え、今の自分に満足することなく研鑽を積んで欲しいと思います。

最後に大会開催にご協力頂いたすべての皆様、そして沢山の経験を積み視野を広げる機会を下さった皆様に感謝申し上げます。


U-15アジアチャレンジマッチ2017
愛媛県・松山市
11月24日~26日
出場国・地域:日本、チャイニーズ・タイペイ、オーストラリア、松山市代表

11月24日(金)日本11-1松山市代表 7C
11月25日(土)オーストラリア1-16日本 5C
11月26日(日)日本10-6チャイニーズ・タイペイ


侍ジャパン公式サイトより転載
清水隆行 12期
3戦全勝優勝の侍ジャパンU-15代表、さらなる高みへ
MVPには度会隆輝


11月24日から26日まで行われたU-15アジアチャレンジマッチ2017。
2年に1度開催されるU-15W杯の空白年に行われており、中学3年の硬式球児に対して、国際試合の経験を
毎年平等に与える意味で大きな役割を果たしている。

今大会も、中学硬式各連盟の垣根を超えた日本一決定戦となっているジャイアンツカップ(全国中学野球選手権大会)の出場選手を中心に、
侍ジャパンU-15代表が結成された。大会2日前からの合流・練習となったが、能力・意識ともに高い選手たちは、
短い期間で団結力を高め、本来の持ち味を発揮。松山市選抜、オーストラリア、チャイニーズ・タイペイに3連勝して優勝を決めた。

大会前の記者会見で清水隆行監督は「勝つためにチームの中で何をすべきかを考えて行動できることが、上のレベルでは
さらに必要となっていきます。その後押しをしていきたいです」と語っていたが、短期間で選手たちがそれを実行した。

各チームでは主力の選手たちだが、ベンチスタートとなっても声出しや準備を怠らなかった。
3試合を終えて清水監督は「連携プレーでのアウトも多く取れました。そういうアウトの取り方は、今後も必要になってくるので、
さらに伸ばしてもらえれば」と、語った。細かいプレーの精度も急造チームながら高く、失点を最小限に抑えることができた。

そして清水監督が繰り返したのは「これがゴールではない」ということ。
「今の年代ではトップレベルの選手たちですが、今のままでは上の世代では通用しません。
良いモノを持った選手たちなので、もっともっと素晴らしい選手になれるように、
トップを見据えて野球に向き合って欲しいです」と力を込めた。

まだ彼らの野球人生は前半戦だ。高校では甲子園という目標を全選手が抱いているだろうが、
さらにその先の侍ジャパンU-18代表やトップチームのユニフォームも目指して欲しい。
そう期待させる高いポテンシャルを短期間で発揮した選手たちの躍動が印象的だった。

チーム順位
1位 日本(侍ジャパンU-15代表)3勝0敗
2位 チャイニーズ・タイペイ 2勝1敗
3位 松山市選抜 1勝2敗
4位 オーストラリア 0勝3敗


侍ジャパン公式サイトから転載
清水隆行 12期
【侍U15】清水監督が抱負
ヤクルト・度会氏次男らがメンバー
アジアチャレンジマッチ

「U―15アジアチャレンジマッチ2017」(23日から愛媛・松山)に出場する侍ジャパンU―15代表の清水隆行監督(44)と
度会隆輝内野手(15)=佐倉シニア=、南雲壱太内野手(15)=浦和シニア=が21日、都内で会見した。

大会は日本、台湾、オーストラリア、松山市代表の4チームによる総当たり戦で行われる。
清水監督は「今後の野球界にとって大切な世代。勝利のために自分は何ができるか、考えられる選手になってほしい」と、
未来の侍戦士たちに期待を寄せた。

度会選手は元ヤクルト選手で、現球団職員の度会博文さん(45)の次男。
「父からは『これまでやってきたことを信じて、精いっぱい頑張れ』と言われました。自分の力がどこまで通用するか楽しみ」と、
元気いっぱいに抱負を語った。

2017年11月22日 スポーツ報知掲載
榎本達也 18期 現:FC東京コーチ
元JリーガーGK榎本、ブラインドサッカー代表に初選出
「手応えありません」試行錯誤中

2020年の東京パラリンピックで悲願の金メダル目指す日本ブラインドサッカー(視覚障害者による5人制)協会は
元JリーガーのGK榎本達也(38)=F東京普及部コーチ=をアジア選手権(12月9~18日、マレーシア・クアラルンプール)
日本代表に初選出した。元Jリーガーが選出されるのは初めてで、同選手は今月上旬に千葉市で行われた強化合宿に参加。
190センチの長身を生かしたプレーで存在感を見せたが、意外にも「手応えはありません」と試行錯誤の船出となった。

榎本は今年4月にブラインドサッカー日本代表の強化指定選手に選出、イングランド遠征などを経て、アジア選手権の代表の座を射止めた。
直後の3日間の強化合宿では紅白戦でゴールマウスを守り、的確なコーチングを見せた。

「代表に選ばれたことは光栄ですが、自信とか手応えという感触はないです。公式戦は今回が初めてですし、実際どれだけできるか分からない。
でも、手探りの状況の中でもしっかりと結果を残さないといけない。アジアの頂点を目指し、世界選手権の切符を取って、
さらにその先に東京オリンピック・パラリンピックがある。時間がない中でも結果を残さないと」

Jリーグ時代はGKでも大きなスペースの中で動くことができた。しかし、ブラインドサッカーは狭いエリアでの動きが要求される。
榎本の戸惑いはそこにある。15年9月に就任した高田敏志監督(40)はルール改正により、ゴールがボール1個分大きくなった状況で
大型GKを探していた。F東京にルートがあり、予備動作が少なく至近距離や予測がつきにくいシュートに対して
無駄なく対応できる榎本に白羽の矢を立てた。

「一度、花を咲かせて枯れて引退しているが、新しい花を咲かせるための球根をいただいた。自分の花をどう咲かすかは自分次第。
自分で決めた以上はネガティブに考えない。チャレンジしても損はないですし、失敗だと言う人がいたとしても、
人間の成長には必ず生きると信じています」

日本代表には佐藤大介(33)という世界でもトップ5に入る正GKが存在する。その図式は変わらない。
高田監督は「榎本が加入して佐藤がよりレベルアップしてきました。いい相乗効果になっています。何度も彼(榎本)と話し合って彼を呼んだ。
人間的にも素晴らしいし、他の選手からも頼れる存在になっている。(抜てきは)狙い通り」と証言していた。

現在はアカデミーで年中から小6までの選手を指導。合間にブラインドサッカーの練習に時間を費やしている。
「ジムに行ったり自宅や近所の公園などでステップの練習や目のトレーニングをしています。ビジョントレや眼球運動ですね。
10分もやれば頭は痛くなってしまう。以前に比べたら質という部分では変わりました」と話した。
高田監督は経験を積ませれば大きな戦力になると見込んでいる。Jリーグから始めてブラインドサッカーに飛び込んだ榎本が新しい道を作る。

◆榎本 達也(えのもと・たつや)
1979年3月16日、東京都練馬区出身。38歳。
6歳でサッカーを始め、浦和学院高から97年に横浜Mに入団。
98年にはU―19日本代表としてAFCユース選手権の準優勝に貢献した。
01年には退団した川口能活に代わってレギュラーを獲得。ナビスコ杯決勝ではPK戦で3本止めて大会MVPに輝いた。
07年にヴィッセル神戸、11年に徳島ヴォルティス、15年にF東京に移籍、16年限りで引退して現在はF東京普及部コーチ。

◆ピッチとボールはフットサルサイズ
全盲から光覚(光の強弱を認識する感覚)までの選手が対象。ピッチサイズはフットサルを基本にルールが考案され
40メートル×20メートルで4人のFP(フィールドプレーヤー)と晴眼者または弱視者が務めるGKの5人
(交代人数は前後半各6人まで)がプレー。
試合時間は前後半とも20分で敵陣のゴール裏にガイド(または『コーラー』と呼ばれる)が立ち、
ゴールの位置、距離、角度、シュートのタイミングなどを伝える。その他はGKと監督だけが声を出すことができる。

ボールはフットサルと同じ大きさで転がると音が出る特別仕様。FP(フィールドプレーヤー)はボールを持った相手に
向かっていく時は「ボイ」(スペイン語で『行く』の意味)と声を出さなくてはならない。
選手の存在を知らせ、危険な衝突を避けるルール。発しない場合はノースピーキングという反則となる。

◆高田監督、アジア1位→世界選手権が金への「絶対条件」
高田監督は2020年の本番まで確かな青写真を描いている。
アジア選手権で上位3チームに与えられる世界選手権(来年6月、スペイン・マドリード)の切符を取り、世界の強豪を倒すこと。
それが東京パラで悲願の金メダルにつながると確信している。

「アジアではイランはリオの銀、中国が4位でした。アジアを勝ち抜かないとその先はありません。
アジアで1位になって世界選手権に行くことが絶対条件だと思っています」と高田監督。
イランとは過去、4敗4分けと一度も勝っていない。中国とは1勝8敗3分けと分が悪い。
それでもイランのパワープレーに対抗するための体感トレ4人のFPで守って攻める全員サッカーを強化。
差は縮まっていると高田監督も実感している。

「1位でアジアを勝ち抜くという意識はかなり浸透しています。
世界選手権で世界1位のブラジル以外と対等な勝負をすれば、その後はブラジルだけを見ることができる」が確かな青写真でもある。

◆ゴールエリアとゴールサイズ
GKは縦2メートル×横5.82メートル(従来は縦2メートル×横5メートル)のエリアの中から外に出てはいけない。
また、エリア内からエリア外のボールに触ることもできない。
ゴールの大きさは縦2.14メートル×横3.66メートル(従来は縦2メートル×横3メートル)。
いずれも今年の国際公式試合から変更となった。

2017年11月21日 スポーツ報知 掲載
石井義人 17期
元巨人・石井義人監督 全国大会初勝利!
「楽しくやろう」佐藤病院率いる

社会人軟式野球の日本一を競う天皇賜杯第72回全日本軟式野球大会ENEOSトーナメントが21日、兵庫県で開幕した。
1回戦16試合が行われ、公徳会佐藤病院(山形)が2―0で北陸ガス(新潟)に零封勝利。
西武、巨人などで活躍し6月に就任した石井義人監督には全国大会初勝利となった。

3回に1番大泉の右前適時打で先制。9回に追加点を挙げ、3投手が2安打完封リレーと相手打線を封じた。
石井監督は「選手たちには楽しくやろうと話していた。選手全員の勝利」と喜びを口にした。

軟式野球らしさが出たのが9回の場面。四球と野選でたまった走者を犠打で進め1死二、三塁に。
ここで石井監督はヒットエンドランのサインを出した。「プロ野球ではそう見られない。軟式野球ならではですよね」と石井監督。
サイン通り2番中村が一塁前へボテボテのゴロを転がす間に、三塁走者が貴重な追加点のホームを駆け抜けた。
「あの場面はとにかくバットに当てて転がすこと。チーム打撃はずっと練習してきました」と説明した。

チームは山形県内屈指の強豪だが、10月上旬の国体ではドウシシャ(大阪)に敗れ初戦敗退。
2週間で基本を確認し、楽しみながらプレーする野球の本質を徹底させたという。

昨年までプロ野球、独立リーグで硬式一筋だった石井監督は「ボールがつぶれてしまうのが一番難しい。強く叩いても、すくってもダメ。
ミート重視したレベルスイングでないといけない」と対応の難しさを口にする。
それでも待望の全国1勝を挙げ、次は21日に森自動車(和歌山)と対戦予定。
「今日みたいに楽しくプレーできれば勝てると思う。選手よりも自分が一番楽しくやれば、勝手に選手たちがついてきてくれると思っていた」と
笑顔で次戦を見据えた。

2017年10月21日 スポーツニッポン掲載
清水隆行 12期
【侍U15】元巨人・清水隆行氏が監督就任
高橋尚成氏、古城茂幸氏、加藤健氏も臨時コーチに

日本野球連盟とNPBエンタープライズは28日、「U―15 アジア・チャレンジマッチ 2017」(11月24日~26日=松山)に
出場する「侍ジャパン」U―15の代表メンバーを発表した。
監督には、巨人OBの清水隆行氏(43)が就任したほか、臨時コーチには同じく元G戦士の高橋尚成氏、古城茂幸氏、加藤健氏。
清水監督は「再びユニホームに袖を通す機会をいただけたこと、大変光栄に感じています。
U―18や次世代のカテゴリーでも活躍が楽しみな選手たちが集まりました。
海外のチーム相手に勝つことはもちろん、選手がさらに成長する機会となるよう、コーチ陣とともに全力でサポートしてまいります」とコメントした。

2017年9月28日 スポーツ報知 ネット配信
坂元弥太郎 21期 
浦和学院・坂元の19K 「試合の中でつかんでいけた」
たくさん三振を取れているという感覚は、浦和学院の坂元弥太郎になかった。

「練習試合でも、大体10個とか11個くらいは取っていたんです。だから、この日もすんごい取れているとは思わなかった」

2000年8月11日。坂元は八幡商(滋賀)との1回戦で、無意識のうちに三振を積み上げていった。

相手のことをあまり知らない一回は、いつも通り、慎重に入った。先頭打者にいきなり四球。
「まずは外角を中心にバッターの様子や、どういうスイングをしてくるのかを見る。必ず慎重に入るんですよ」

次打者がスリーバント失敗となり、一つ目の三振を記録すると、2死二、三塁では5番打者を空振り三振に。
投げていくうちに、相手打線との力関係も分かっていく。「これぐらいの感じで、いけるいけるって」。徐々にエンジンがかかっていった。

重圧や優勝への強い思いは、正直、なかった。やっとの思いでつかんだ甲子園を、ただ楽しんでいた。

この夏、埼玉の優勝候補は断トツで春日部共栄だった。秋のドラフトで中日から1位指名を受ける中里篤史を擁し、打線も強力。
「県勢初の全国制覇も狙える」と評されたチームを決勝で延長戦の末に2―1で破り、4年ぶりの出場を決めたのが浦和学院だった。

「中里くんと投げ合って共栄に勝てたっていうのは、自分の中ではかなり自信にはなりました。
それだけの思いでつかんだ甲子園だったから、とにかくマウンドを楽しみたいというのがあった」

そしてもう一つ。胸にあったのは、母・和子さんへの思いだ。

和子さんは坂元の高校入学直前にがんで亡くなった。小さい頃から母に誓っていた甲子園出場。
ユニホームのズボンのポケットには遺品のお守りを忍ばせ、スタンドでは父の良也さんが遺影を持って見守った。

武器となったのは、縦と横に大きく曲がる2種類のスライダーだった。

「この辺から落とせば大丈夫、とか試合の中でつかんでいけた」。
八幡商もこの対決に向けて、「打席の中で投手寄りに立って、曲がり切る前に打つ」と徹底したスライダー対策を練っていたが、当たらない。

七回の三つ目のアウトから7者連続三振で試合終了。19奪三振は、実に54年ぶりの大会タイ記録(当時)となった。

2回戦の柳川(福岡)戦でも、敗れはしたが16奪三振。一躍、坂元の名は全国区になり、秋のドラフト4位でヤクルトから指名された。
先発、救援のどちらもこなせる投手として、日本ハム、横浜、地元の西武と4球団で計13年間プレーした。

飛躍したあの夏を坂元はこう振り返る。「運命じゃないですけど、大きくプロへの道が開けたのが、あの2試合だった。
プロ野球選手になりたいと思って一生懸命やっていたけど、あれがなければ、大学や社会人を経由していたかも分からないですね」

2013年シーズンで現役を引退し、15年には株式会社「アスリートプランニング」に入社。
新規事業として野球スクールを開校し、埼玉県三芳町で幼稚園児から小・中学生を対象に野球を教えている。

もっとも伝えたいのは、「あきらめない強い心」だ。
「僕自身、プロで何年もできるような選手ではなかったけど、強い思いで試行錯誤しながらやった結果が13年だった。
子供たちにも、頑張れば道は開けるんだよって、経験談として伝えてあげたい」

伝えることの難しさを痛感する日々。「ずっと、勉強ですね」。2017年夏、35歳。
バットを振る教え子たちを見つめる目は、厳しくもあたたかい。

坂元弥太郎(さかもと・やたろう)
1982年生まれ、埼玉県川口市で育つ。82回大会は2回戦の柳川(福岡)戦でも16奪三振。ドラフト4位でヤクルト入団。

2017年9月22日 朝日新聞バーチャル高校野球掲載
土井杏里 28期 現:Chartres
逆境をむしろ楽しめ! ハンドボール選手土井杏利
ハンドボールのフランストップチームの最前線で結果を出し続けるスゴい人!

ハンドボール強豪国、フランス。
そのフランスの中でもトップクラスのチーム・シャンベリーに、ひとりの日本人選手がいる。
幼少期にハンドボールに魅せられ、日本のハンドボール界で瞬く間にトップレベルまで駆け上がった彼は、
致命的な膝の怪我により、一度はハンドボールから完全に身を引くことになる。
その彼が、どのようにして世界を舞台に活躍するプロのハンドボール選手になったのか。
異国の地で友人も頼る人もいない中で、どれほどの挫折と苦難を乗り越えて今の地位を手に入れたのか。
その波乱万丈の半生を覗いてみよう。
さあ… ハンドボール選手 土井 杏利様の登場です!

★ハンドボールに魅せられ世界を目指す
小学校3年生の頃、兄と妹がやっていたハンドボールの練習を見学に行って試しにやってみたらハマってしまいました。
今まで全くやったことのないスポーツで、何より楽しかったのに全く点が取れなかったのが逆に悔しかったのです。
初めて点を取った時は本当に嬉しくて、今でも鮮明に覚えているくらいです。
僕の母はいい意味で変わった女性で、僕らが小さいころからずっと言われていたことがあります。
「あんたたち好きなことやりなさい」「やるなら世界を目指しなさい」と。
父も母も色々なことを子どもに挑戦させるのが好きで、僕らも挑戦するのが大好きになりました。
その中で、これだと思ったもので世界を目指すことが当たり前になっていきました。

★高校、大学と確実に頭角を現していく日々
中学校時代は弱小で、僕一人で15点、20点を取っても負けるようなチームでしたが、
高校に進学する際に先生が強豪の浦和学院に推薦してくれました。
周りからは活躍できるわけがないと言われましたけれど、厳しい環境に身を置かないと成長はないと考えたのです。
結果的には1年生の終わりにはレギュラーになりました。
その後、日本体育大学に推薦してもらって、そこでも2年生でメンバーに選ばれました。

★致命的な膝の怪我。ハンドボールからの引退
順調に結果を残していたのですが、大学4年の初めに左膝を壊してしまいました。
注射をしながらプレーをするようになって、最終的に右膝も壊してしまいました。
その中で、最後の全日本総合という一番大きい大会で準決勝まで行くという快挙を成し遂げます。
でもその時には、両膝にテーピングを施しているような状態でした。
自分は実業団に行くと思っていて、実業団からもお誘いは来ました。
けれど膝の調子が悪くて膝の名医にも診てもらったところ、軟骨が破損していることがわかりました。
軟骨は破損するともう治りません。
その時は号泣しました。
決断するのが本当に難しかったのですが、ハンドボールが好きだからこそ中途半端にはやりたくなくて、
ハンドボールから完全に引退することを選択しました。

★語学を学ぶためにフランスへ。そこで起きた奇跡
今後何をするかと考えた時、僕はフランス人の父のおかげでフランス語がある程度話せるので、
数ヶ国語を話せれば武器になると考えて、まずはフランス語を学ぶためにフランス留学をしました。
留学先には憧れだった世界のレジェンド、ステファン・ストックランの出身地であるシャンベリーを選びました。
ここで奇跡が起きました。
留学して約一か月後に膝の痛みがなくなったのです。
なぜかはわかりません。奇跡が起きたとしか思えない事でした。
そこで、趣味程度でいいからハンドボールをやりたいと思って、「どのチームでもいいからハンドボールをやらせてくれ」と
クラブに直談判し、若手育成チームを紹介してもらいました。
そこでいいなと思ってもらえて、試合に出してもらえるようになりました。

★帰国しようと思っていたところに舞い込んだ吉報
そこからは毎試合、活躍しました。
6月の終わりにはシーズンも終わって、フランス語も話せるようになったので、日本に帰るつもりでした。
そうしたら、電話がかかってきたんです。プロ契約させてくれと。
最初は驚きのあまり意味がわからなくて、だんだん手が震えてきて。
完全にシンデレラストーリーですね。
今となっては大学時代に膝を怪我したのも幸運だと思っています。
その膝の怪我がなければ、僕は今も日本の実業団でやっていたと思いますから。
僕が一番感謝しているのは父です。
僕が引退してからも、「ハンドボールやれよ」ってずっと言ってくれていたのです。
あの頃はできなくて当たり前だと思って、目標を立てていませんでした。
セカンドチームで結果を残せたのは、のびのびやっていたからです。
全部いい方向に働いたのだと思います。

★3年目、再びどん底へ。その経験こそが自分を強くした
2年目まではうまくいったのですが、監督が代わって3年目でまたどん底を経験します。
シーズン前の準備期間に練習をしすぎて、体調を崩してしまったのです。
結果が出なくて、それにより精神的にも崩れてしまって。
スタメンも別のメンバーに取られてしまって、さらに落ち込みました。
そこから復活出来たのは、シーズンの半分が過ぎた冬に、オルテガ監督が僕のことを日本代表として呼んでくれたからです。
彼は僕のことを100%信頼してくれました。
信頼されると、いい結果も出るんです。
アジア選手権もいい結果を出して、世界選手権の切符も手に入れることが出来ました。
プロ4年目の時にはなんと!フランスのオールスターゲームにも出場できました。
苦しい中でも成長を見出せるという価値観の転換が大切です。
どん底に落ちた時に、楽しみを見出せるからこそ成長できる。
その経験がなければ精神力もこんなに強くならなかったでしょう。
人種差別のことも含めて、日本にいたら学べなかったことです。

★世界で活躍する日本人の未来を切り拓きたい
僕が海外でプレーし続けるには理由があります。
今、若手は海外に渡る時期だと思います。
そして、僕らが切り拓いた道を次世代に繋げていく必要があると考えています。
日本代表に入ったことのなかった僕が、これだけ海外で活躍できているということで、若い子たちも夢を見られるようになります。
今まではその夢が遠すぎたのですね。
でも僕を含め、銘苅さんや石立さんなど、結果を出してきた人が増えてきたことで海外に挑戦しようと思う若い子たちが増えています。
僕が海外で活躍し続けるということは、彼らの希望であり続けるということなのです。

★取材を終えて・・・
常に過酷な環境に身を置き続けることができる土井選手のハートの強さは、やはりご両親の教育だと思った。
お母様は千葉県に生まれ育ち、このまま千葉の田舎で終わるのは嫌だとフランス語を習い、
単身フランスへ飛びフランス人の旦那様と知り合い、一緒に帰国されたという。
そしてお父様は、千葉でイタリアンレストランを経営されている。
お兄様はカートの選手となり、今は家業を継いでいる。
妹さんは同じくフランスに渡り、現在エルメスのデザイナーをされているそうだ。
兄弟みんなが自分の能力を大いに発揮されている。
世界トップクラスで戦っているが、まだお母様は試合を一度も観に来ていないそうだ。
土井選手の1つの夢は、お母様が試合を観に来てくれる事だという。
きっと近いうちに叶うであろう。

★プロフィール
土井杏利(どい・あんり)
1989年9月28日 178cm/74kg
所属チーム:シャンベリー(フランス1部リーグ)2013年~2017年
シャルトル 2017年7月~
ポジション:LW(左サイド)

日刊すごい人 掲載
ブラインドサッカー日本代表
榎本達也 18期 現:FC東京コーチ
FC東京アカデミーコーチ 榎本達也
ブラインドサッカー日本代表
イングランド遠征メンバーに選出!

本日、NPO法人日本ブラインドサッカー協会より発表されたブラインドサッカー日本代表イングランド遠征(8/2~9)のメンバーに
当クラブ所属のアカデミーコーチ 榎本達也が選出されましたので、お知らせいたします。

★榎本達也(FC東京アカデミーコーチ) コメント
『日本代表に選んでいただき光栄です。一日一日を大切に、有意義な海外遠征にしたいと思います。
パラリンピックに向けての大事な海外遠征ですので、本大会を想定して臨めるようにコンディションもメンタルも
良い準備をして、頑張りたいと思います』

FC東京公式サイトより転載
8月2~9日 ブラインドサッカー日本代表が
イングランド遠征へ 遠征メンバー10名が決定
GK榎本達也が初選出
7月15~17日 日本代表強化合宿を開催
(千葉県千葉市)

NPO法人日本ブラインドサッカー協会(以下、JBFA)は、8月2日(水)から9日 (水)にかけて、ブラインドサッカー日本代表を
イングランドへ派遣します。遠征ではイングランド代表、イングランドBチームなどと対戦する予定で、
このほど初選出となるGK榎本達也を含むFP10名、スタッフ9名、計19名の遠征メンバーが決定しましたのでお知らせします。

日本代表は、2015年2月の欧州遠征(イングランド・ヘレフォード)でイングランド代表と3試合のトレーニングマッチを行い1分2敗。
また、同年5月のIBSAワールドゲームズ(韓国・ソウル)でイングランド代表メンバーを含む英国代表(世界ランク16位)と
グループリーグで対戦し、0-1で敗れています。

2015年11月に高田敏志監督体制となって以降は初めての対戦で、体格のいい強豪国と対戦することで
「IBSA ブラインドサッカーアジア選手権 2017」(12月9日~18日、マレーシア・クアラルンプール)でのアジアチャンピオン、
世界選手権2018出場権獲得へ向けての強化を行います。
また、遠征前には7月15日(土)から17日(月・祝)の3日間にわたりZOZOPARK HONDA FOOTBALL AREA(千葉県千葉市)で
国内強化合宿を開催します。

●ブラインドサッカー日本代表遠征メンバー
監督 高田 敏志
コーチ 中川 英治
GKコーチ 武田 幸生
フィジカルコーチ 中野 崇
コーチ 福永 克己 Avanzareつくば
メディカルスタッフ 松井 康
FP4 田中 章仁 たまハッサーズ
FP5 黒田 智成 たまハッサーズ
FP6 日向  賢 たまハッサーズ
FP7 川村  怜 Avanzareつくば
FP9 加藤 健人 埼玉T.Wings
FP10 落合 啓士 buen cambio yokohama
FP13 寺西  一 松戸・乃木坂ユナイテッド
FP15 佐々木 ロベルト泉 Avanzareつくば
GK1 佐藤 大介 たまハッサーズ
GK12 榎本 達也
*他、マネージャー3名を派遣

●イングランド遠征スケジュール(予定)日程
8月2日(水) 日本出発・イングランド到着
会場:St George’s Park
8月3日(木)~7日(月) コンディショニング・試合等
8月8日(火) イングランド出発
8月9日(水) 日本到着

●ブラインドサッカー日本代表強化合宿 開催概要

主催:NPO法人日本ブラインドサッカー協会
会場:ZOZOPARK HONDA FOOTBALL AREA
7月15日(土) 10時~16時
7月 16日(日) 9時~15時30分
7月17日(月・祝) 9時~15時

●ブラインドサッカー日本代表の今後のスケジュール

日 程(予定)・内容と会場
8月2日(水)~9日(水) イングランド遠征
9月9日(土)・10日(日) 代表強化合宿
(ZOZOPARK HONDA FOOTBALL AREA)
10月14日(土)・15日(日) 代表強化合宿
(ZOZOPARK HONDA FOOTBALL AREA)

日本ブラインドサッカー協会公式サイトより転載
土井杏里 28期 現:Chartres

独占インタビュー
土井杏里選手の「海外ハンドボールの現実」独占インタビューが掲載されています
シャンベリーの地で独り何を思い、どう闘い抜いて来たのか、これまで他メディアで語られる事が無かった
知られざる闘いについて書かれています
ぜひご覧ください!

http://handball-japan.com/professional-foregin/1471/
清水隆行 12期
清水隆行氏、侍ジャパンU―15代表監督最有力
中学生世代で編成される野球日本代表・侍ジャパンU―15の次期監督に、巨人OBで野球評論家の清水隆行氏(43)が
最有力候補に挙がっていることが29日、分かった。

清水氏は強打の外野手として巨人(1996~2008年)、西武(09年)でプレー。引退後は巨人で1、2軍の打撃コーチも務めている。

U―15代表チームは全国のボーイズ、シニアなどの硬式野球リーグ所属選手から選抜される。
監督は昨年まで同じ巨人OBの鹿取義隆氏が務めていたが、鹿取氏が巨人GMに就任したことで空席となっていた。
チームは新監督の下、11月に静岡・伊豆市で開催される「第9回BFA U―15アジア選手権」に出場する。

◆清水 隆行(しみず・たかゆき)
1973年10月23日、東京都生まれ。43歳。
浦和学院高―東洋大から95年ドラフト3位で巨人入り。2009年に西武へ移籍し、同年引退。
11~15年は巨人コーチ。現役通算成績は1485試合で打率2割8分9厘、131本塁打、488打点。183センチ、83キロ。右投左打。

2017年6月30日 スポーツ報知掲載
石井義人 17期 現:公聴会佐藤病院監督
石井義人氏、軟式野球指導者に
よみがえった10年前の記憶

今月7日、本紙で西武、巨人などで活躍した石井義人氏(38)が、山形県南陽市の軟式野球・公聴会佐藤病院の監督に就任したことが報じられた。
同氏は昨季までBCリーグ武蔵で打撃コーチを務め、今季から同野球部の顧問に転身していた。

その記事を目にして10年前の記憶が鮮明によみがえった。2007年2月。西武担当だった記者は宮崎の南郷キャンプを取材していた。
石井氏も西武に在籍。当時はレギュラーではなかったが天性の打撃センスでミート力が高かった。キャンプ期間は休日もある。
そこで当時のベテラン選手だった平尾博嗣氏(現球団職員)に「報道陣が草野球をするんですけど見学に来ませんか?」と打診すると
「軽く体を動かせるし俺も入れてよ。適当に選手も何人か誘っておくから」と返ってきた。

当日、選手を乗せたバスが球場に到着すると報道陣から驚きの声が上がる。
平尾氏を先頭にして降りてきたのは中島(現オリックス)、片岡(現巨人)、中村ら主力級の面々。その中に石井氏もいた。
まさかの「西武ライオンズVS担当記者」が実現。大敗覚悟でプレーボールとなったが選手らは次々とポップフライを打ち上げた。
軟式と硬式。同じ球体でも打ち方は大きく異なる。硬式はボールの下を叩いてスピンをかけて飛ばすため、同じスイングで軟式を打つと
つぶれて飛距離が出ないのだ。その中で唯一、全打席で簡単に大飛球を飛ばしていた選手がいた。それが石井氏だった。

以前、石井氏は軟式と硬式について「打撃は根本的に変わる」と話し「叩きつぶすダウンスイングではなく、
より水平に近いレベルスイングが求められる。もしかしたらアッパー気味の方がいいかもしれない」と分析していた。
もともと「点」でなく「面」で打つようなスイング軌道だっただけに、当時の試合でも軟式球を苦にしなかった。

ちなみに試合は報道陣チームの全18人が守備に就ける特別ルールにも助けられ、敗れはしたが接戦を演じることができた。
一生の思い出とも言える夢のような時間をくれた当時の選手たちに、この場を借りて改めてお礼を言いたい。
そして石井氏の指導者としてのさらなる飛躍を願っている。

2017年6月13日 スポーツニッポン掲載
第67回埼玉県美術展覧会 入選

5月30日(火)~6月21日(水)の約3週間、埼玉県立近代美術館(さいたま市)にて、第67回埼玉県美術展覧会が開催されています。

卒業生1名の作品が入選しました。

埼玉県美術家協会賞 彫刻
森下聖大

日本大学芸術学部大学院2年

浦和学院高校公式サイトより転載

浦和学院高校公式サイトには受賞した作品も掲載されています
是非ご覧ください

埼玉県美術展覧会
榎本達也 18期 現:FC東京
榎本達也ブラサカ強化指定選手 元Jリーガーでは初
日本ブラインドサッカー協会は11日、元FC東京GKの榎本達也(38=現東京アカデミーコーチ)が視覚障害者らによる
5人制の日本代表強化指定選手に選出されたことを発表した。元Jリーガーが選ばれるのは初めてで15、16日に
千葉市で行われる強化合宿に参加する。

97年に横浜入り。03、04年と2年連続Jリーグ年間優勝に貢献し、昨年12月に現役引退した。
2月の強化合宿には練習生として参加していた。榎本はこの日クラブを通じて「東京2020パラリンピックでのメダル獲得に
貢献できるよう全力で頑張っていきたいと思います」とコメント。

5人制のブラインドサッカーは視覚に障害があるフィールドプレーヤー4人と健常者のGKでプレーする。
日本代表は15年アジア選手権で4位に終わり、パラ初出場を逃している。

2017年4月12日 日刊スポーツ掲載
榎本達也 18期 現:FC東京
元FC東京GK榎本がブラインドサッカーの日本代表強化選手に
NPO法人日本ブラインドサッカー協会が11日、日本代表強化指定選手を発表。
昨季節までJ1のFC東京でGKとしてプレーし、今季からFC東京のアカデミー(育成部門)コーチを務める榎本達也(38)が選出された。
榎本は15日から16日に千葉県で行われる強化合宿に参加する。

東京都練馬区出身の榎本は、浦和学院高から1994年に横浜入り。2003、04年と横浜で2度のリーグ戦年間王者を経験、
優勝した01年のナビスコ杯(現YBCルヴァン杯)ではMVPにも輝いた。
07年に神戸、11年に徳島、13年には栃木へと移籍し、15年からFC東京でプレーしたが、16年限りで現役を引退していた。

リーグ戦通算成績はJ1が223試合、J2が60試合、J3では7試合に出場。
昨季はJ1リーグ戦出場はなく、FC東京U―23チームのオーバーエージ枠でJ3リーグ戦7試合に出場していた。
A代表経験はないが、日本がMF小野伸二(現札幌)らを擁して準優勝した99年の世界ユース選手権(現U―20ワールドカップ)
ナイジェリア大会ではメンバーに選出されていた。

榎本はクラブを通じ、コメントを発表。「今季からFC東京アカデミーのコーチとして活動している中で、今回強化指定選手という
お話をいただき、大変光栄に思います。ブラインドサッカーという新しい挑戦ではありますが、自分の持っている力を最大限発揮し、
東京2020パラリンピックのメダル獲得に貢献できるよう全力で頑張っていきたいと思います」と意気込んでいる。

ブラインドサッカーでは、GKは晴眼者または弱視者が務める。

2017年4月11日 スポーツニッポン ネット配信
石井義人 17期
石井義人氏 BCから軟式へ指導者として新たな挑戦 いつかはNPBで

打撃の職人が新たなチャレンジを決めた。
巨人、西武などで活躍した石井義人氏が、今年から山形県南陽市にある「公徳会 佐藤病院」野球部で顧問を務めることになった。
社員として公務にあたる傍ら、野球部で部員の指導に努めるという。

「軟式野球と硬式野球は全くの別もの。だからこそ、自分にも新たな発見があると思いました」
12年には球団新記録となる代打率・404の活躍で、CSファイナルSのMVPにも輝き、原巨人の日本一に貢献。
14年限りで現役引退し、15年から2年間は独立リーグのBCリーグ・武蔵で打撃コーチを務めた。
武蔵は15年発足の新チームながら、その年の育成ドラフトで巨人に4人、中日に1人と計5選手を日本プロ野球(NPB)に送り出した。
「教え子たちがNPBの世界へ向かう姿は見ていてたのもしかったし、充実感はありました」と振り返る。

BCから軟式へ。指導の場を移し、教え子たちのNPBへのハードルはより高くなる。
だが、昨秋のドラフトでもヤクルトが軟式野球チーム「相双リテック」の菊沢竜佑投手を6位で指名。28歳のオールドルーキーは
今春のキャンプで注目を集めた。「軟式からでもプロ野球は目指せる。ぜひそういう選手を送り出したい」と石井氏。
過去にも大野豊氏(出雲市信用組合出身)らプロで花開いた例もある。

「公徳会 佐藤病院」の野球部は昨年9月、軟式最高峰の天皇賜杯に山形県代表として出場した県内屈指の強豪だ。
国体には4年連続出場中。このオフには自ら武蔵時代に指導し、15年育成ドラフト2位で巨人に入団した小林大誠捕手も加わった。
地元では冠名をいだいたスポーツ大会の開催や、野球教室なども開いており、地域密着のスポーツ振興も進める。

軟式野球の指導経験はない石井氏は「バッティングが根本的に変わる」と思考を巡らせていた。
よく言われているが、硬式野球出身者が軟式球を打つと、ボールがつぶれてしまいポップフライが続く。
中身が空洞という軟式球の形状のためだ。「叩きつぶすダウンスイングではなく、より水平に近いレベルスイングが求められる。
もしかしたら、少しすくうアッパー気味の方がいいかもしれない」と同氏。
同時に「ボールに合わせたスイングを求める。投手のタイプや軌道に合わせたスイングを求めることにもつながる」と今までにない
アプローチが、自らの指導の幅を広げることにも期待しているという。

「またいつの日か、NPBのユニホームを着て指導者として戻りたい思いは胸の内にはあります」と話す。
指導者としての階段は、まだ上り始めたばかり。
縁もゆかりもないみちのくの地で新境地を切り開き、新たな肥やしとして球界へ還元していく考えだ。

2017年2月23日 スポーツニッポン掲載
清水隆行 12期
慶大・岩見、元巨人清水隆行氏から打撃指導
現役最多のリーグ戦通算9本塁打の慶大・岩見雅紀外野手(3年=比叡山)が14日、
全日本大学野球連盟などが主催する「冬季特別トレーニング東日本2017」に参加した。

元巨人の清水隆行氏(43)からは打撃指導を受け、スイング時に体が前に流れる悪癖の修正方法などを質問した。
「自分が気になっていることがあったので、それを聞けて良かった」。清水氏は「体の使い方が柔らかいよね」と評した。

2017年2月14日 日刊スポーツ ネット配信
榎本達也 18期 現:FC東京
元東京GK榎本達也氏、ブラサカ強化合宿に初参加
元東京GKの榎本達也氏(37=現東京普及部コーチ)が11日、千葉市内で行われた視覚障害者らによる
5人制サッカー(ブラインドサッカー)の日本代表強化合宿に初参加した。

高田敏志監督からオファーが届いて実現。20年東京パラリンピックを見据えての招集で、
自国開催で初のメダル獲得を目指す日本代表にとって大きな戦力になりそうだ。

代表は3月20日にさいたま市でパラリンピック4連覇中のブラジルと対戦する。

◆榎本達也(えのもと・たつや)
1979年(昭54)3月16日、東京都生まれ。6歳でサッカーを始める。
浦和学院高から97年に横浜入り。99年ワールドユース日本代表。横浜では元日本代表GK川口の陰に隠れ3年間出番がなかったが、
01年にナビスコ杯(現ルヴァン杯)最優秀選手を受賞。神戸、徳島などでもプレーして15年に東京に加入。16年12月に現役引退。
J1通算223試合に出場。190センチ、82キロ。血液型O。

2017年2月12日 日刊スポーツ掲載
ながの銀嶺国体
第72回国民体育大会冬季大会 スケート競技会

1月27日 ~1月31日
長野県長野市

成年男子
ショートトラック 500m

吉田陵平
 36期 現:神奈川大 8位

ショートトラック 5000mリレー
 4位
吉田陵平
・新井聖也・濵田哲・八木下光成
石井義人 17期
佐藤病院軟式野球部顧問へ
元巨人で昨季はBCリーグ武蔵の打撃コーチを務めた石井義人氏(38)が今季から公徳会佐藤病院軟式野球部の顧問として指導する。

2017年2月2日 日刊スポーツ Twitter情報
石井義人 17期
石井義人氏、巨人坂本に衝撃「天性の打ち方」
野球指導者講習会が22日、東京都内で行われ、横浜、西武、巨人で活躍した石井義人氏(38)が打撃について講義した。

質疑応答の形を取り、変化球打ちの練習方法や勝負強さを身につける方法などを指導した。
変化球打ちの練習については両足のステップ幅を広げた状態でのトス打撃を紹介。
速いトス、遅いトスを打者に教えないで上げて打つ練習方法を教えた。

勝負強い打者になるには「メンタルが一番大事。弱い打者には『凡打でいいから思い切り振ってこい』と声掛けすると良い」と話した。

また、現役時代に凄いと思った打者は? と問われ「坂本勇人(巨人)ですね。インコースを打つのがうまい。
天性でないとできない打ち方」と答えていた。

2017年1月22日 日刊スポーツ ネット配信
2016年
石井義人 17期 現:武蔵ヒートベアーズコーチ
【BC武蔵】元巨人・石井義人打撃コーチが今季限りで退団
今後も指導者の道を希望
巨人や西武で活躍した、独立リーグ・BC武蔵の石井義人打撃コーチ(38)が、今季限りで退団することが13日、分かった。

14年に巨人で現役引退後、15年から地元・埼玉のBC武蔵で同職に就任。
現役時に培った打撃理論を基に、2年間若手育成に尽力。今後も指導者の道を希望している。

2016年9月14日 スポーツ報知掲載
半波和仁氏 7期
元浦和学院の強打者・半波和仁さん「目標、努力、感謝を」
1986年夏に浦和学院が甲子園でベスト4に勝ち進む原動力になった強打者、半波和仁さん(48)の姿が16日、朝霞市営球場にあった。
川越西の二塁手で6番を打つ次男、優斗選手の応援席に駆け付けた半波さん。入間向陽との熱戦を応援しながら、
「目標を立てる。それを忘れず努力すれば結果は出る。関わってくれる人に感謝、恩返しすることを忘れてはいけない」と、
今この瞬間に白球を追う球児たちに言葉を掛けた。

★30年前の夢、球児に託す
半波さんは1984年に浦和学院に入学。6番中堅手として活躍し、86年の県大会初優勝に貢献。甲子園でも本塁打を放った。

あれから30年。今はグラウンドからは離れて、スタンドから2年生の息子に声援を送っている。
この日の朝は優斗選手に「打って打球を飛ばさないと試合は動かない。しっかり振れ」と言って送り出した。

試合は入間向陽に先行される苦しい展開。八回に4番本田隼人選手の2点本塁打で追いすがるものの、あと1本が出ず、4-5で惜敗した。
優斗選手は四回表、2死一、二塁の好機で打順が回ってきたが飛球で凡退。
八回表の最後の打席は、死球を受けて出塁し、勝ち越しの機会を築くも後続が断たれた。

試合終了後、半波さんは涙でくれる選手たちをスタンドから見て、「粘り強く、良い戦いだった」とたたえた。
優斗選手には「打って塁に出てほしかったなあ」と少し残念がった。

新たにチームを背負って立つ1、2年生には「強いチームになる気持ちを持って練習に励んでほしい。
そして一緒に戦った3年生が来年、応援に駆け付けてくれるから、勝って恩返ししないといけない」と話し、
目標を立て、努力し、感謝することの大切さを繰り返し強調した。

そう話すのは、自らの経験に基づいているからだ。
浦和学院に入学した時から甲子園に行く目標を立て、黙々と練習に励み、甲子園への切符をつかんだ。

しかし、全国出場の喜びもつかの間、悲劇が襲った。監督を務めた野本喜一郎氏が開会式当日に急逝。チームは悲しみに暮れた。
それでも、「みんなが監督に勝利を届けよう」と一戦一戦臨み、ベスト4へ躍進した。
苦しい時に仲間の励ましがあったから頑張れた記憶が今も胸に刻まれている。

夏の全国制覇は埼玉県勢にとって見果てぬ夢だ。半波さん自身も届かなかった思いを今夏も球児たちに託している。
「全国で勝つ気持ちで練習に励むことが大切。特別なことはない」。球児全員に送ったエールは力強い響きがあった。

2016年7月17日 埼玉新聞掲載
清水崇行 12期 現:野球評論家
巨人OBが野球教室 前田さんと清水さん
読売巨人軍OBが講師を務める「読売さわやか野球教室」(読売新聞東京本社・YC入間仏子など主催、読売巨人軍協力)が28日、
入間市の西武市民運動場で開かれた。市内7チームに所属する小学生の男女約130人が、投手出身の前田幸長さんと
外野手だった清水崇行さんの指導を受けた。

前田さんは「相手の方に足を出すとボールが正面に行きやすい」と投球の基本動作をアドバイス。
清水さんは「左足で一塁ベースの角を踏むと、けがをしにくいし、二塁に向かう勢いも付けやすい」と、走塁のコツを伝授した。
仏子ドジャース主将の須江陽海君(12)は「走塁のやり方を意識したことはあまりなかったので勉強になった」と感心した様子だった。

YC入間仏子の小原浩之所長(45)は「今年は入間市制50周年なので、野球やサッカー、
駅伝などのスポーツイベントで地域をもっと盛り上げたい」と意気込んでいた。

2016年2月29日 読売新聞埼玉版掲載
二木一平 30期
誇れる卒業生 野球部卒、初の司法試験合格!!
本校野球部出身の二木一平さんが、見事司法試験に合格した。
今後は、1年間の裁判所研修を積み、弁護士を目指すという。
この卒業生、しっかりと恩師である野球部の森監督に挨拶に訪問した。

おめでとうございます。二木さん。
これからのご活躍を祈っています。

浦和学院高校公式サイトより転載

※二木さんの詳細記事は浦和学院高校公式サイトに掲載されています
http://www.uragaku.ac.jp/blog/topics_news/2015/12/post-594.html
坂元弥太郎 21期 現:アスリートプランニング・ベースボールワールドコーチ
第二の人生。「弥太郎先生」に会ってきた

プロ野球選手にはユニホームを脱ぎ、「第二の人生」を迎えなくてはいけない瞬間が、必ず訪れる。ある日、うれしい着信があった。
「野球スクールを開校したんです。一度、遊びに来ませんか」。声の主は西武担当時代に取材させていただいた、坂元弥太郎さん。
いやいや。「弥太郎さん」って、ヘンな感じだな。親しみを込めていつも通り、「弥太郎君」と書かせていただく。
弥太郎君が先生を務める野球スクール「アスリートプランニング・ベースボールワールド」に、行ってきた。

池袋から東武東上線に乗り換えて、みずほ台の駅からタクシーで1000円ほど。
埼玉・三芳町にある「竹間沢室内練習場」に到着すると、快活な声が聞こえた。

弥太郎君は小学生のスクール生を相手に、打撃投手を務めていた。あの坂元弥太郎が、である。何だか、たいへん贅沢な風景に見えた。

「もう1球お願いします!」

「よーし、しっかり振り抜けよ!!」

弥太郎君は2013年オフに引退後、一度は会社勤めをしていた。オーダースーツの会社に勤務するサラリーマンとして、自らの人脈をたどっては
必死に営業を頑張っていた。その姿にグッと来て、私もグレーのスーツを発注させていただいた(たいへん気に入って、テレビ出演の際などに着る
『勝負服』にしている)。弥太郎君から衝撃の言葉を聞いたのは、確か注文したスーツを納品してくれた、まさにその時だった。

「カトーさん、自分はやっぱり野球にかかわる仕事がしたくて。会社、辞めることにしました」

営業の仕事で西武ドームや東京ドーム、横浜スタジアムなどを訪れるたびに、野球人としての血が騒いだのだという。やはり俺には、野球しかない。

浦和学院3年だった2000年夏の甲子園1回戦・八幡商戦で当時の最多タイ記録となる19奪三振をマーク。
プロではヤクルト、日本ハム、横浜、西武と渡り歩いた。これまでの経験や培ったノウハウを、未来がある少年たちに伝えていきたい-。

試行錯誤の中で5月20日、三芳町のこの地で同校を開校することになった。メニューはバッティング、ノック、ブルペンでのピッチングから、
体幹トレーニングと進んでいく。少人数の生徒たちに手取り足取り、面倒見のよい指導が印象的だ。元プロ野球選手からこんなに
熱心に教えてもらえたら、野球が好きにならずにはいられないだろう。コーチングはやさしく親切で、弥太郎君の人柄がにじみ出ていた。

弥太郎君は言う。

「その子の能力が今、どれだけあるのか。それを見極めた上で、指導に臨むようにしています。
今の能力を把握して、それからどのレベルを目指すのかという将来を踏まえた上で、練習の『強度』を設定しています。
軟式でも硬式でも、やりながら噛み砕いて、子供たちに合うようにを心がけています」

生徒たちは普段、それぞれの少年野球チームに所属している。その上でさらにうまくなるために、このスクールで鍛えている。
学校に通って授業を受けながら、さらなる学力向上のために学習塾に通うようなものですよ、と弥太郎君は話してくれた。

ところで、弥太郎先生の指導ってどう? 教え子さんに聞いてみた。

まずは小学6年生・吉津尊くんの話から。「自分はピッチャーをしてるんですが、すごくプラスになります。
教えていただいて、球が走るようになり、コントロールも安定するようになりました。甲子園でのビデオも見せてもらいました(笑)」

同じく6年生の長嶺佑海くんはこう語ってくれた。

「いろんなトレーニングを分かりやすく教えてくれて、すごい人だなあと思います。スクールはいいライバルに出会えて、すごく楽しい。
練習は大変だけど、うまくなると思うと、乗り越えられます」

生徒に「やらせる」のではなく、一緒に汗を流す指導法こそが「弥太郎流」なのだろう。
弥太郎君が楽しくコーチングしているからこそ、門下生の皆さんも楽しくトレーニングに集中できるのだと感じる。
いつか教え子の中から、弥太郎君のように甲子園を沸かせるようなスターが出てきたら、素晴らしいと思う。

第二の人生でも「全力投球」を続ける弥太郎君を、これからも応援していきたい。

【参考】「アスリートプランニング・ベースボールワールド」ホームページ http://www.apbbw.com/

報知高校野球デスク 加藤弘士記者のBaseball Boogieより転載
2015年
石井義人 17期 現:武蔵ヒートベアーズコーチ
【BC武蔵】石井義人コーチ、巨人は「シーズン終わる頃には一番上」
巨人時代は代打の切り札で活躍した、ルートインBCリーグ・武蔵ヒートベアーズの石井義人打撃コーチ(37)が16日、
東京・神保町の書泉グランデで行われた「『プロ野球死亡遊戯』(ユーキャン)発売記念トークショー」に出演。
同書の著者で人気ブロガーの中溝康隆氏(36)と80分にわたってトークバトルを繰り広げた。

「巨人前半戦苦戦の原因」のお題については「セペダだと思います。長距離砲の不在は大きかった」と断言する中溝氏に対して、
石井コーチも「打線がかみ合っていないのが原因」と指摘。
それでも「借金1での前半戦ターンとなったが、シーズンが終わる頃には一番上にいると思う」と後半戦の巻き返しに期待した。

横浜、西武、巨人と3球団を渡り歩いた現役時代について話題が及ぶと、代打打率と得点圏打率がともに4割を超えた2012年シーズンを振り返り、
「西武を戦力外になって『見返してやろう』という気持ちが好成績につながった」と回想。
「翌年、阪神の呉昇桓のストレートがど真ん中の球なのにバットに当たらず、引退を決めた」との秘話を明かした。

「移籍して、意外に溶け込みやすかったのはジャイアンツ。みんな礼儀正しくて、やりやすかった」と石井コーチ。
中溝氏との濃厚なジャイアンツトークに、来場した同書の読者からは大きな拍手が送られていた。

2015年7月16日 スポーツ報知 ネット配信
石井義人 17期 現:武蔵ヒートベアーズコーチ
武蔵ヒートベアーズ対談
石井義人(打撃コーチ)×小林宏之(監督代行)
高校野球、大舞台を楽しんで

野球の独立リーグ、ルートインBCリーグに今季初参戦した熊谷市を本拠地としている埼玉県民球団「武蔵ヒートベアーズ」。
武蔵ヒートベアーズの小林宏之監督代行と石井義人打撃コーチは埼玉高校野球界で名をはせその後プロ野球で活躍。
第97回全国高校野球選手権埼玉大会が開かれている中、元高校球児で現在は後進の指導に当たっている小林監督代行と石井コーチが
高校時代の思い出などを語り合った。(司会進行・友清創埼玉新聞社運動部長)

★「緊張すると結果でない」(石井義人)
「一生の友、仲間を大事に」(小林宏之)

―公式戦の後期が始まりました。前期は2位で終わりましたが、後期は1位を目指すということになります。

小林 先発ピッチャー次第だと思います。前期の後半は接戦もだいぶものにしてきました。
接戦の試合をたくさん経験していけば、全選手のレベルも上がってくる。いい戦いができるのではないか。

―埼玉出身の2人は浦和学院と春日部共栄で高校時代から活躍されました。
2人は1995年秋、関東大会の出場をかけて県大会準決勝で対戦しています。

小林 あの試合は何となく覚えています。

―当時、浦和学院と春日部共栄は埼玉の覇権を争っていました。

小林 私が中学3年生の時に共栄が甲子園で準優勝していまして、それをみて入ってきた同級生、メンバーが多かった。
うまい選手もたくさんいましたし、甲子園に行けるだろうなと思っていました。浦和学院にも素晴らしい選手がたくさんいました。

―浦和学院にはライバル心はあったんですか。

小林 もちろん、最大のライバルだった。1年生の夏も結局、決勝戦で浦和学院に負けてしまいました。

―石井さんは1年生の時に甲子園に出場しています。

石井 ベンチに入っていました。

―当時、春日部共栄の小林投手のことは。

石井 知っていました。絶対に負けてはいけない相手だというのは自分のなかにありました。

―小林さんは浦和学院の石井選手については。

小林 同じ学年で1年生からベンチに入っていましたので気になっていました。

―96年春の大会では浦和学院と春日部共栄が県大会決勝で戦っています。

石井 負けています。

―春日部共栄が勝ちました。この時は小林さんが先発しています。2人は対戦しています。

小林 打たれているという思い出しかないです。

石井 私は打ってないと思います。

―その年の夏の大会は春日部共栄が第1シードで浦和学院が第2シード。
両校は決勝で戦うと見られていましたが、春日部共栄が準々決勝で聖望学園に敗退しました。

小林 夏の大会前に行った聖望学園との練習試合では大差で勝ちました。その時の油断がみんなにあったのだと思います。
あの時は聖望学園のピッチャーが非常に良かった。完ぺきに抑えられました。

―春日部共栄が負けたことについては。

石井 まさかという思いでした。共栄が勝ち上がってくると思っていました。

―決勝戦は浦和学院と大宮東が対戦し、浦和学院が優勝しました。石井さんは夏の大会2回目の甲子園出場となりました。

石井 甲子園ではいつも1回しか勝てませんでした。

―石井さんにとって甲子園は。

石井 甲子園は楽しむところ。ご褒美ではないですが、そういうところだと思っています。
優勝するということはもちろんありますが、大舞台を楽しまないとつまらないという思いでやっていました。

―1年生の時から甲子園に出場しています。甲子園は日々の苦しい練習をして勝ち取ったものです。

石井 そういうこともあると思います。ただ、1年生の時は楽しむことが出来ませんでした。3年になって最後の夏の甲子園では楽しみました。

―高校3年間、勉強し野球もやってきました。3年間がその後の人生に影響を与えていますか。

石井 厳しいところがあったからこそ成功できたということはあると思います。

―小林さんは高校3年間を振り返ってどうですか。

小林 甲子園には一度もいくことが出来ずに高校生活が終わりました。きつかったという思い出しかないです。
もちろん甲子園を目指していましたが、高校3年の時に監督さんが甲子園だけでなくもっと上のプロを目指して練習に向かったほうがいいという話を
してくれました。そこからプロ野球選手になるということを目標に練習が出来ました。監督さんの言葉は当時の自分にとってすごく良かったです。

―甲子園への思いは。

小林 強かったです。3年間、甲子園に行くために努力しました。寮生活だったが、休みも月に1回あるかないか。ずっと野球づけでした。

―プロ野球選手となって甲子園のマウンドに立った時は。

小林 めちゃくちゃうれしかったです。ロッテ時代ですが、交流戦で阪神戦に先発し甲子園のマウンドに立ちました。
ここを目指していたんだなと思いながら投げました。気持ちよかったです。

―高校球児はみんな甲子園を目指していますが、甲子園に行けるのは一握りです。

小林 自分がどう練習したらうまくなれるのか。自分自身で考えることが大切だと思います。

―石井さんはどうですか。

石井 とにかく自分を信じることが一番大事なことだと思います。自分がやってきたことを自信を持ってしっかりやること。
そうすれば、良い結果につながると思います。

―毎日の厳しい練習のなかで心が折れそうになったことはありますか。

小林 何回もあります。

―どう、乗り越えたのですか。

小林 寮生活だったのですが、ベットのなかで耐えるしかなかったです。上級生になると少しは練習も任せてもらえるので、プロになるためにはと
思いながら練習していました。私自身、プロ野球選手という目標がありましたので、そこに向かっていると気持ちを切りかえていました。

石井 1年生の時はなんとか見返してやろうという思いでやっていました。

―石井さんはもくもくとやるタイプですか。

石井 集中してやりたい方なので、練習はもくもくとやっていました。自分自身に課題を設定したりしていました。

―小林さんは初めからピッチャーですか。

小林 ピッチャーは中学2年生からです。内野手でしたが、当時のエースがコントロールが悪かった。私はコントロールは良かった。

―高校の時は140キロぐらい出ていました。

小林 苦しい冬のトレーニングが終わり春になってピッチングをすると速くなっているなと自分で感じる時がありました。

―石井さんはずっと内野手。

石井 ずっと内野手で左打ちです。初めてバットを持った3歳から左だった。

―2人は高校3年間野球に打ち込みました。後輩にメッセージを。

小林 同級生、野球のチームメイトは一生の友になる。仲間を大事にしてほしい。
3年生は最後の大会になるので、自分のプレーを思い切ってやってほしいと思います。

石井 とにかく楽しんでほしいと思います。緊張していると結果はでません。

―武蔵ヒートベアーズは今年1年目です。是非、埼玉にベアーズありというチームになってほしいと思います。

小林 ずっと愛される球団になりたいと思います。いまはそのための基礎づくりだと思っています。私自身、なんとか力になれればと思います。

石井 とにかく、熊谷、埼玉の皆さまにベアーズを知ってもらえるように頑張ります。
勝っていいアピールができるようにチーム一丸となって取り組みます。

★石井義人(いしい・よしひと)
1996年浦和学院高校4番打者として全国高校野球選手権出場、同年ドラフト4位で横浜ベイスターズ入団。
2002年埼玉西武ライオンズ移籍、11年読売ジャイアンツ移籍。14年現役引退、武蔵ヒートベアーズ打撃コーチに就任。川口市出身。37歳。

★小林宏之(こばやし・ひろゆき)
春日部共栄高校卒業、1996年ドラフト4位で千葉ロッテマリーンズ入団。
11年阪神タイガース移籍。14年埼玉西武ライオンズ移籍、現役引退。15年武蔵ヒートベアーズ投手コーチ、5月監督代行に就任。草加市出身。37歳。

2015年7月16日 埼玉新聞掲載
鈴木健 8期
ファンを愛し、ファンに愛されたあのOBが「埼玉vs.千葉」を語る!
7/4 G.G.佐藤氏と鈴木健氏が「埼玉vs.千葉シリーズ2015」に来場決定!
7月3日(金)~5日(日)対 千葉ロッテマリーンズ戦にて実施する「埼玉vs.千葉シリーズ2015」の来場ゲストが決定いたしました。

7月4日(土)に“愛の波動砲”こと、千葉県出身のライオンズOB、G.G.佐藤氏の来場が決定いたしました!
同じくライオンズOBで埼玉県出身、チームの主砲として4番打者も務めた鈴木健氏の来場も決定し、両OBが試合前のステージトークショーにて
「埼玉vs.千葉」などをテーマ語ります!G.G.佐藤氏の名ゼリフ「キモティー」は飛び出すのか!?
現役時代の思い出などについても語るトークショーにぜひご注目ください。

また、試合後のイベントでは両OBがSaitamaユニホームとCHIBAユニホーム着用者限定にしたノック体験を行います。
埼玉vs.千葉シリーズ2015の特別イベントをぜひお楽しみください。

★ステージトークショー
日時   7月4日(土)12:30~(予定)
ゲスト 鈴木健氏、G.G.佐藤氏
場所 ドーム前広場ステージ
内容 埼玉・千葉両県出身のライオンズOBが、「埼玉vs.千葉」についてや、現役時代の想い出やエピソードなどを中心に語ります。(20分程度)
ステージにお越しいただければどなたでもご覧になれます。

★埼玉・千葉両県出身のライオンズOBによるノック体験
日時 7月4日(土)試合終了後
ゲスト 鈴木健氏、G.G.佐藤氏
場所 西武プリンスドームフィールド
対象 「Saitama」ユニフォーム、または「CHIBAユニフォーム」着用の方ならどなたでもご参加いただけます。
※外野エリアでのフィールドウォークはどなたでも参加できますが、内野エリアで行われるアトラクションは当日参加対象以外の方の参加はできません。
内容 埼玉・千葉両県出身のライオンズOBがノックを行います。

埼玉西武ライオンズ公式サイトより転載
坂元弥太郎 21期
元ヤクルト・坂元弥太郎氏がスクール開校「自由に野球できる環境を」
ヤクルトや日本ハムで中継ぎとして活躍した坂元弥太郎氏(32)が、5月20日に埼玉県内で小中学生対象の野球スクールを開校する。

坂元氏は埼玉・浦和学院出身で、高校3年夏の甲子園で1試合19奪三振の大会タイ記録(当時)を樹立。
01年ドラフト4位でヤクルトに入団。その後、日本ハム、横浜、西武と渡り歩き、11年間で238試合に登板した。

引退後はクラブチームでプレー。「今の子ども達は自由に野球をできる環境が少ない。いつか強豪校に行って甲子園に出たい、
プロで活躍したいという子ども達のサポートをしたい。練習できる環境を作ってあげたい」とスクールを立ち上げた。

スクールは埼玉県入間郡三芳町にある室内練習場で行い、ほかにも社会人野球経験者らがコーチとして指導。
高いレベルでのプレー経験を生かし、打撃、投球、トレーニング方法まで指導する。地元で再び野球に携わり、指導者としての
スタートを切る坂元氏は「埼玉の野球レベルをもっと高めたいという思いもある」と話した。

2015年5月19日 スポーツニッポン掲載
三浦貴 17期 現:浦和学院高校教諭
4強入り!浦和学院支える元プロ三浦貴コーチ

センバツはベスト4がそろった。

テレビ中継でチェックしてしまうのは「裏方さん」の表情だ。ここで言う「裏方さん」と言うのは、「コーチ」のこと。
試合前ノックや、応援姿がたまに映ることがあるからだ。強いチームには優秀なコーチがいる。
陽の目を浴びることは少ないが、「選手のために」と休みなく献身的に働く姿に、敬服の思いが止まらない。

雑誌「輝け甲子園の星」で担当した浦和学院が、準々決勝で県岐阜商を破り4強入りした。ここにも光る「裏方」がいる。
元プロ野球選手のコーチ、三浦貴さん(37)だ。浦学選手時代はエースで4番。
ブルペン練習場がなかった当時、取材に行くとビニールハウスの中で森士監督とマンツーマンで投球練習する姿があった。
当時の見出しは「生意気エース」。投打の中心として「誰にも負けたくない」オーラを発している選手だった。
アンケートに「将来の夢は、プロ野球選手か、教師になること」と書いてくれた。

強気なエースはその後東洋大に進み13勝をマーク。00年秋に最高殊勲選手、最優秀選手、ベストナインを獲得しリーグ優勝。
その秋、巨人にドラフト3位指名。同期の阿部慎之介とバッテリーで開幕1軍入りし、中継ぎとして3勝をマーク。
そのあと打者に転向し、西武移籍を経て09年引退。“二刀流”を歩んだプロ9年間だった。

三浦さんの人生が大きく動き出したのはこの後だ。もう一つの夢、「教師」への挑戦が始まる。

4トントラックの運転手をしながら、週5日東洋大2部に通って教職課程を受講。12年に教員免許を取得し、4月に浦和学院の社会科教諭になった。
この時、2年間の教員歴がなければ野球部を指導できない規定だったが、プロ経験者の学生野球資格回復条件が大幅に緩和され、翌年7月にコーチ就任。
「新制度適応第1号」として話題になった。

現在は、公民教諭として週10コマの授業と、1年生の担任を持つ。授業でも、グラウンドでも、
そして寮でも選手と行動を共にし、小さな心の変化や、体調の異変に目を配っている。
「選手を預かる身として、毎日何が起こるかわからない緊張感があります。礼儀、挨拶、私生活からきちんとしないと、チームワークは生まれません」

1回戦、龍谷大平安に勝利した時、三浦さんはコーチになって初めて母校の校歌を歌った。
「(完投の)江口が辛抱してよく投げてくれた。野球ができなかった分、甲子園で暴れて欲しいです」。
原因不明の目の病気で約1年間苦しんだエースを称え、自身が果たした96年春夏甲子園出場以来の校歌に、酔いしれた。

浦学の取材に行くと、三浦さんがいい形で選手をリラックスさせているなと感じる。
写真撮影の時は自分が受けた経験を活かし「もっと笑顔出せよ~!」と横からアドバイス。

「プロ野球選手ってどんな生活でしたか?」

「有名人と会ったことありますか?」

練習後は選手たちの質問に、白い歯を見せて答えることもある。怒る時はもちろん怒る。しかし、自分の時とは違う指導法を考え、模索している。
「同じ『怒る』にしても、今の子たちはなぜ怒られているか説明することが必要。監督の考えも、わかるように伝えないといけない。
まだ2年目ですので、日々勉強です」

ここまで3試合。高い集中力で接戦を勝ち抜いている浦学の選手たち。「裏方として、縁の下の力持ちになって頑張りますよ」。
2年ぶり2度目の優勝まであと2勝。裏方として、全力で支える。

2015年3月30日 日刊スポーツ「いま会いにゆきます」から
石井義人 17期 現:武蔵ヒートベアーズコーチ
武蔵ヒートベアーズ元年「暑い熊谷をさらに熱く」
地元に密着した新球団の発足元年が幕を開けた。プロ野球独立リーグのルートインBCリーグに今年から参入する熊谷市の武蔵ヒートベアーズは
10日、市内で必勝祈願と新年祝賀会を行い、1年目のシーズンに向けて飛躍を誓った。監督、コーチ、選手らが街にも飛び出して市民に存在をアピール。
「暑い熊谷をさらに熱く」の思いを胸に、地域の人々とともに新たなスタートを切る。

■地元で必勝祈願、飛躍誓う
新チームの第一歩は必勝祈願から始まった。
午前10時、市役所近くの高城神社(宮町)に星野監督をはじめ、石井打撃コーチ、小林投手コーチ、中林トレーナーと選手21人が集合。
高橋球団代表、五十嵐ゼネラルマネジャー(GM)ら球団関係者のほか後援会のメンバーも訪れる中、本殿で祈祷(きとう)して玉ぐしをささげた。

福岡(現ふじみ野)高出で元プロ野球阪神などの星野監督は「僕たち野球人にとっては(必勝祈願をする)この日がお正月。
チームの安全と選手のけががないようにお願いした。新しいチームなので一致団結してみんなで盛り上げていければ」と新年の抱負を話した。

浦和学院高出で元埼玉西武などの石井コーチは「今日初めてユニホームを着て身が引き締まる思い」。
春日部共栄高出で元ロッテなどの小林コーチは選手と初対面し「たくさんコミュニケーションをとって分かり合っていきたい」と語った。

一行はそのまま徒歩で八木橋百貨店(仲町)に移動した。熊谷富士見中のブラスバンド演奏に合わせてステージに登場。
宣伝本部長のパンチ佐藤氏がマイクを握って、集まった市民にチームを紹介した。さらにJR熊谷駅前のショッピングセンター、ニットーモールを訪問。
高城神社から約2キロの道中ではのぼり旗を掲げながら、チラシなどを配ってアピールした。

午後1時からは市内のホテルで地元や後援会関係者に向けた年頭祈願祭・新年祝賀会を開催。
選手一人一人が自己紹介と決意を語り、「1年目から優勝する気持ちでやりたい」、「星野さんを胴上げしたい」という声が出た。
チーム始動は2月中旬、リーグ開幕は4月11日の予定。2015年は新球団ベアーズが熊谷に新たな球春を届ける。

2015年1月11日 埼玉新聞掲載
石井義人 17期 現:武蔵ヒートベアーズコーチ
武蔵HBのコーチに元西武の石井義人氏
「地元の新球団を強く」

埼玉で生まれ育った“打撃の天才”が指導者として第二の人生をスタートさせる。
プロ野球埼玉西武など3球団で活躍し、昨秋をもって18年の現役生活に区切りを付けた石井義人氏(36)。
今季からプロ野球独立リーグ・BCリーグに参戦する武蔵ヒートベアーズ(熊谷市)の打撃コーチに就任し、「地元の新球団を強くしたい」と燃えている。

■教える楽しさ

川口市出身で1996年、浦和学院高校の主砲として春夏連続で甲子園に出場した。
巧みなバットコントロールで広角に打ち分ける打撃が最大の特長。通算打率2割9分の数字以上に勝負強いバッティングが印象的だ。
巨人に移籍した2012年には中日とのクライマックスシリーズ・ファイナルステージ第5戦、九回裏1死満塁の好機に代打出場。
サヨナラ打を放ち、同シリーズのMVPに選ばれた。

華々しいプロとしてのキャリアも、終盤に差し掛かると2軍暮らしが長くなった。若手から助言を求められることも増えた。
技術を伝えた選手の活躍が自分のことのようにうれしかった。「教える楽しさを知ってしまった」。厳しい競争の世界で感じたことのなかった心境だった。

■指導者の道へ

現役引退を発表した昨年10月に武蔵ヒートベアーズから誘いを受けた。
当初は選手兼コーチというプランも提示されたが、「コーチの仕事は初めて。教える方がおろそかになってしまってはチームに申し訳ない」と、
指導者一本で勝負することにこだわった。

結果がものをいうプロの世界に身を置くか、球団が仲介する安定した職業を選ぶか、人生の岐路に立って悩んでいたとき、
「野球界にいればいい」と背中を押してくれたのは巨人の原辰徳監督だった。
球団スタッフとしてチームに残ることを勧める同僚たちの声も多かったが、指導者になるという決意は固かった。

■地元埼玉の縁

「卒業生の中で3本の指に入る打者。一番の努力家」とは母校・浦和学院高校の森士監督。
「長年プレーヤーとして学んできたものをプロを志す人に伝えてもらえたら」と期待を込める。
同級生として共に甲子園で戦い、埼玉西武でもチームメートだった同高の三浦貴コーチも「昔の仲間が同じ埼玉で指導者になるのは感慨深い。
お互いに切磋琢磨(せっさたくま)していいチームをつくりたい」と旧友にエールを送る。

石井氏は「埼玉で指導者をするのは何かの縁。サッカー人気も高いが、野球に少しでも貢献できれば。
自分自身成長しながら今までの経験を伝え、将来的にはNPBの指導者になりたい」と夢を語る。
尽きることのない野球への情熱が、新たな人生の一歩を踏み出す原動力となる。

◇BCリーグ 野球を通じた地域活性・貢献を掲げる独立リーグ。
群馬、新潟、長野、富山、石川、福井の6球団に、2015年シーズンから新規参入する埼玉、福島の2球団を加えた8球団が各県でリーグ戦を行う。
近年はNPB(日本プロ野球機構)を目指す若者の受け皿にもなっている。

2015年1月5日 埼玉新聞掲載
2014年
谷口英規 8期 上部大監督
上武大学・後編 「主体性のある人間へ」

★秋のシーズン後に欠かさず行う個人面談
監督と直接ミーティングできる機会があるとはいえ、それでも180人を越えるチームである。
全員の前で話すことはできても、一人、一人と十分に話ができる環境を作ることは難しい。
そんな中、選手を理解する上で効果を発揮しているのが、秋のシーズンが終わった後に行う面談だ。

谷口監督はこう語る。
「年に1回ですが、今年の反省、翌年の目標などを書かせた目標設定シートを使って面談を行っています。
なりたい自分を目指す上で、今がどうなっていて、どういう方法を使って、目標に近づいていくか。

そして、それをいつまでに行うかということを話し合いながらコミュニケーションを図っているのですが、
そこで選手の性格や現状も読み取るようにしています。

やはり面と向かって話すとわかるんです。まだ幼いなとか、だいぶ大人になったなとか、その子の考え方、特徴、どう伸ばしていったらいいか。
話もそうですが、シートに書いてあることからつかめることも多いんです。それと褒めるべきところはしっかり褒めてあげるようにしています。
こういうところが良くなったとか、さりげなく言います。やっぱり今の子は褒められた方がモチベーションは上がりますからね」

★選手に対しては裏表なく付き合う
選手の長所、成長した点を見逃すことなく正しく評価する。過大に持ち上げることはしない。なぜなら裏表なく向き合っているからだ。

「選手たちが入ってきたときにはっきり言うのが、野球もそうですが、勝負事は平等ではないということです。
例えば高校で甲子園に出た、出ないなど、どうしたって違いはあるわけです。
その時点で差があるのですから、みんなが同じスタートラインに立っているという見方はできません。
選手にも、そのとき私が使いたいと思っている選手など、構想についても隠さず言います。

ただ、当然ながらそこですべてが決まるわけではありません。『それを覆すような選手が出てきたらチームは本当に強くなる。
全員が同じ練習をできるわけではないし、平等ではないけれど、そこで這い上がるか、諦めるか。そのどちらだ』という話もします」

とはいえ、野球の面ではどうしても不平等な部分が出てきてしまうからこそ、配慮していることがあるという。
「選手として以外のところは平等になるようにしています。うちは全員に何かしらの役割を与えるようにしているのですが、
メイングラウンド、サブグラウンド、雨天練習場の責任者、さらにその中にあるブルペン、バッティングゲージなど
細かく担当者を分けて、毎週1回、点検をする。
それぞれに責任を持たせて、やりがいを作っているのですが、試合に出ているからやらなくていいとか、そういうことはありません。
そうしなければ周囲も納得しないですからね」

★不満は提案に変える 主体性のある人間へ
団体生活を学ばせるために全員に寮生活を義務づけているが、そこにはコミュニケーションを取りやすくする狙いもある。

谷口監督によると
「私生活では自分の仲の良い子たちだけといるようになりがちですが、うちは家族みたいになろうよと言っています。
野球というものを通せば、みんなが1つになれるところがあるんです。予定では来年、1年生が入ってくると全部で230人くらいの
チームになりますけど、どうやったら円滑にコミュニケーションを図れるか、全員で考えています。

入ってくる子たちには、うちのホームページに選手の顔写真を載せているので、それを見て顔と名前を覚えてきなさいという指示はしましたし、
在校生にも入ってくる子たちの写真を見られるところに貼るなりして、初日からお互いが名前で呼び合える準備はさせています」

もちろん、それだけの「個」が集まれば問題が生じるときもある。すべてが自分の思い通りになるなどあり得ない。

「それは納得いかないことも出てくるでしょう。でも彼らに言うんです。
『不満は提案に変えなさい』と。『ここはよくないんじゃないですか』と不満として言うんじゃなくて、
『こうやったら、こう良くなるんじゃないですか』という提案をしなさいと。
選手同士でのミーティングも週に1回行っていて、みんなで1週間を振り返って意見を交換している。
“主体性のある人間”になってほしいんです。

そのときの状況を自分でよく考えて、理解して行動する。社会に出てからも求められることですよね。
そういうことも学んでいるんだというのは、選手たちもわかっていると思います。企業の人事担当の方たちも、
今の子は『コミュニケーション能力がないというのと合わせて、主体性がない』とよく言います。
何かを勉強することは世の中に出てからでもできる。

でも、これだけ密接に人と過ごすことができるのは今しかない。
この大所帯で自分をアピールして、選手として、人として、こいつだったらと思わせられる人間になれたら、
それはその子にとってすごい財産になるはずです。主体性のある選手、チームを目指す。それは大きなテーマとして取り組んでいます」

★主体性を身につけることの重要性は高校野球でも変わらない
主体性を身につけることの重要性は、高校野球に打ち込んでいる選手たちにとっても変わらない。
監督、コーチから指示されたメニューをこなすだけでなく、自分に必要なものが何かをみずから見つけ出し、努力する。
そうした意識を持つことで今の自分を越えていける。

「よくTPO(Time=時間、Place=場所、Occasion=場合)という言葉が使われますけど、時と場所、場合を考慮した上で
自分が何をすべきか考えなさいという話もよくします。うちの子たちもそうですし、今の高校生もそうなのかなと思うのですが、
個人練習はよくやるんですよね。ティーバッティング、ノック。

それも大事です。でも試合で求められる、自分に足りないものを補うための練習ができているかというと疑問です。
セーフティバント、ランナーのときの打球判断、細かいプレーまではやっていない。叱られるかもしれないけれど、
自分で練習方法を考えて取り組んでみることも必要だと思います。
そうやって、そのときのベストを尽くしている子はやっぱり結果を残しますし、成長します。

試合においてもこの状況なら自分が犠牲になって進塁打を打った方がいいのか。ここは外野フライが欲しいのかを自分で考える。
そういう判断ができる子がプロや、社会人野球に進んでいくんです。こちらが考えていること、どうしてほしいかというのを
選手がわかっているときというのは試合でも勝てますね。日本一になったチームもそうでした」

当時の4年生は谷口監督から言われる前に行動に移すことができたといい、監督に何も言わせないチームを作り上げていた。
「親子や夫婦の関係と一緒で、言わなくてもわかる。それが理想じゃないですかね。チームワークの良さはうちの特徴ですし、
日頃のコミュニケーションがもたらしたチームの結束がなければあの日本一はなかったと思います」


上武大の強さは、チームとスタンドが一体となるチーム力。
そのチーム力を発揮するためにはA、B、Cの組織化、密接なコミュニケーション、年1回の監督との個人面談がカギを握っていました。
その狙いは「主体性のある人間」になること。これは野球以外でも大事なことですね。上武大野球部の皆様、ありがとうございました!

高校野球ドットコム 掲載

谷口英規 8期 上部大監督
上武大学・前編
大所帯のチームを結束させるコミュニケーション術


昨春の全日本大学選手権を制した上武大学。他の大学と違うことはそれほどしていないと話す谷口英規監督だが、対戦している大学から
「上武大学の1番の怖さ」と言われることもある「一体感」については、どこにも劣らないという自負がある。

今年は180人を越えるなど、大所帯のチームを結束させるコミュニケーションの取り方、その力の大きさについて話を聞いた。

★スタンドとベンチが一体になった2013年大学選手権
谷口監督はアマチュア野球で大事なのはチーム力だと語る。
「僕はアマチュア野球というのはチーム力だと思っています。試合でスタンドとベンチが一体になっているときというのは本当にすごい力を発揮するんです。
それがもっとも出たのが大学選手権を優勝した昨年の春でした。グラウンドの選手と、スタンドの部員が会話をしているかのように繋がっていました。
決して力のあるチームというわけではなかったんですが、4年生がうまく全員をまとめて、強い思いを持って戦ってくれた。
昨年のドラフトでロッテに入った三木亮はリーグ戦で右目に球が当たってしまい、左目しか見えていない状態にも関わらず『
試合に出る』と、サングラスで患部を隠して出続けた。
キャプテンの小川裕生(現・東芝)も肩が上がらないくらいの怪我をしていたのですが、テーピングをグルグル巻きにして
グラウンドから離れようとはしなかった。しかも、ダイビングキャッチまでする。怪我の悪化を恐れて『代えるぞ』と伝えると、
『監督、代えたら恨みますよ』と返してくる。強い痛み止めの薬を飲んでいたので、試合後には過呼吸になったほどです。
絶対に負けられないというのが見ていて痛いほどわかりました」

★守備専門の選手が逆転満塁本塁打!
谷口監督はさらにこう続ける。
「そんな彼らをスタンドのベンチに入れなかった子たちが必死に応援する。他の大学では、ベンチに入る見込みがない子は、
4年生になるときや、春のリーグ戦でやめてしまう子もいますが、うちは秋の最後の試合までやめません。
それどころか、4年生が1番声を張り上げて選手を鼓舞してくれる。それがうちの1番いいところなんです」

それを象徴する言葉がある。全日本大学野球選手権の決勝戦で代打満塁ホームランを放って初の日本一を手繰り寄せた
清水和馬は試合後、こうコメントしている。
「スタンドのやつらの思いを背負って(ダイヤモンド1周を)走りました」
 谷口監督は、「清水は守備要員の選手で、それが大学で初めて打ったホームランでした。それどころか、公式戦のヒットとしても2本目。
力だけを考えたら、あそこでホームランを打てるような選手ではありませんでした。でも、熱い男で、ずっとコツコツと努力を重ねていた。
彼に期待していたのは守備ですから、『試合で打席に立つことはないんだから』と言っても、『いや、準備だけはしておきたいので』と
1人で黙々とマシンから放たれる球を打っていました。
そんな彼の姿をみんなが知っているから、あの打席ではひと際スタンドが盛り上がった。みんなの思いが後押ししてくれたんでしょうね」

★A、B、Cとチームを組織化。じかに話すことは忘れず
これだけの数の部員を抱えながら、どこよりも団結力が強いと言われる上武大学。いったいどうやってチームを1つにまとめ上げるのか。
 谷口監督はこう語る。
「まずは普通の会社と同じような組織化を行っています。A、B、Cの3軍制を敷いていて、その中にコーチ、学生コーチ、マネジャーなどを
配置して、なにかあれば私の方に伝達される形にしています。選手全員と毎日、個別に会話をすることは不可能ですが、そうやって全体を把握しています。
それから朝は全部員がグランドに集まってランニングを行います。
 みんなで足をそろえて、声をそろえて走る。これも1つのコミュニケーションです。
その後はA、B、Cチームそれぞれの練習になりますから、チームワークを築いていくために欠かせない練習だと考えています」
 組織としてしっかり機能しているとはいえ、直接のコミュニケーションが希薄になってしまっては監督と選手の距離は遠のいてしまう。
それだけに積極的に選手に声を掛けることを忘れない。
「やっぱりじかに話すことは大事ですよね。私は怖いイメージがあるかもしれませんけど、あだ名で呼んでいる選手も多いんですよ。
それで名前を忘れちゃったりするんですけどね。
 グラウンドではしませんけど、ユニフォームを脱げばふざけあったりもしますし、『彼女とどうだ?』とか、プライベートのこともよく話します。
オンとオフは完全に切り替えていますし、よく別人だと言われます」

★家族のような繋がり
そうしたスタイルは確実に選手との関係を良好にしている。
島津瑛向(あきひさ)投手(3年・城西大城西)も、入学したときは「怖い監督」だと構えていた部分もあったというが、
「時間とともに家族のような繋がりを感じるようになりました。本当にグラウンド外では趣味のことであったり、よく話しかけてもらいます。
全員を集めたミーティングも週に1回はしていただきますし、チーム状況が悪いときなどは2日に1回くらいということもあります。
 みんなで監督さんを囲むように座っていつも1時間くらい話していただくのですが、野球のことはもちろん、生活面や人としての在り方など、
本当にハッとさせられることばかりで、毎回あっという間に時間が過ぎます。
 他の大学に行った友人に聞いても、監督さんから直接ミーティングをしてもらっているという話はあまりないですから、
うちは恵まれていると思います」と、長く接するうちに監督の印象が徐々に変わってきたということを教えてくれた。

◆2013年の大学選手権では、選手たちの気迫がこもったプレースタイルで、各校を圧倒していましたが、主力選手がケガを抱えながらも
プレーしていたことはあまり知られていないエピソードでした。ケガをかかえながらも歯を食いしばってプレーする選手たちを見ているからこそ、
スタンドの選手たちも必死に応援する。
 その一体感で優勝を果たすことが出来た上武大。日頃から監督と選手とのコミュニケーションは欠かせません。
後編では、大所帯でもまとめるコミュニケーション術、そして谷口監督は選手達にどんな人間になってほしいと願っているのか。その想いを伝えていきます!

高校野球ドットコム 掲載
石井義人 17期
元巨人・石井義人氏
BC新規参入武蔵の打撃コーチ就任
独立リーグ・ルートインBCリーグに新規参入する武蔵は8日、埼玉県熊谷市内のホテルで、入団選手発表会見を行い、
元巨人・石井義人氏(36)の打撃コーチ就任を発表した。

勝負強い打撃に定評があった石井氏は「リラックスして臨むことが大事。経験や技術を少しでも伝えていきたい」と話した。
11月にコーチ就任の打診を受けた際、巨人・原監督に相談したことを明かし
「“球界に残ればいい”と背中を押してもらった」と感謝。2月の全体練習始動からコーチ業をスタートさせる。

2014年12月9日 スポーツニッポン掲載


武蔵ヒートベアーズ、プロ野球BCL参戦へ布陣整う
熊谷市を本拠地とし、来季からプロ野球独立リーグ・ルートインBCリーグに参戦する武蔵ヒートベアーズは8日、
同市内で会見を行い、初代監督の星野おさむ氏ら首脳陣とチームスタッフ、新入団選手21人が顔をそろえた。

新入団選手の会見に先立ち、プロ野球埼玉西武などで活躍し、今季で現役を引退した石井義人氏(浦和学院高出)が打撃コーチ就任を報告。
石井氏は「コーチは初めてだが、自分も成長しながら強いチームにしていければ」と熱意を口にした。

起用の経緯について高橋義人球団代表は「自分たちが強くなるときに何が必要かを考え、監督やコーチの熱い思いが求められる」と説明。

五十嵐章人ゼネラルマネジャー(GM)も「18年間第一線でやってこられた経験と技術がある。いろいろな面で指導してもらいたい」と期待を込めた。

選手会見では一人一人が壇上で自己紹介を兼ねてあいさつし、進修館高出の矢島は「地元でプレーできるのはありがたいこと。チャンスを生かしたい」と
意気込んだ。最後には配られたばかりのユニホームに袖を通して記念撮影も行った。

平均年齢22・4歳と若いチームを率いる星野監督は「期待に胸を膨らませた顔をしている。開幕に向けてチーム力を上げていきたい。
フレッシュなメンバーでうまく成長していければ」と初陣への意欲をにじませた。

★経験豊富な右腕「いろは学んだ」/最年長の篠田
選手21人の中で先陣を切ってあいさつしたチーム最年長で春日部共栄高出の篠田。今季まで4年間同リーグの長野でプレーした
26歳右腕は「独立リーグのいろはを学んできた。いい手本になれるようにしたい」とナインの先頭に立つ覚悟だ。

四隅を突く制球力を武器とする篠田は「今季は爆発力でアアピールして上の扉を開けたら」と高みを見据える。
「埼玉には西武があるが、もっと身近なプロ野球として子どもたちとも触れ合っていきたい」と、地域への貢献も約束した。

★指導者へ転身、地元貢献誓う/石井コーチ
18年間の現役生活に区切りをつけ、打撃コーチに就任した石井氏。
「コーチとしては何も知らない状態。監督をはじめ、話を聞きながらやっていきたい。今までやってきた技術などを少しでも教えていければ」と、
新たな人生の目標を掲げる。

地元埼玉のチームから声がかかったことに「何かの縁。サッカー人気が高いが、野球に貢献できればいい」と恩返しを誓う。
「選手が若ければこっちも若返る。選手に負けないように、チームを強くしていきたい」と目を輝かせた。

2014年12月9日 埼玉新聞掲載

武蔵ヒートベアーズ、新入団21選手とコーチ発表
プロ野球の独立リーグ、BCリーグに来季から参戦する「武蔵ヒートベアーズ」の新入団選手とコーチが決まり、
8日に熊谷市内のホテルで記者会見があった。

打撃コーチには、2014年シーズンでプロ野球の巨人を最後に引退した川口市出身の石井義人さん(36)が就任。
事前に原辰徳監督に相談したところ、背中を押されたという。
「コーチとしての自分も成長しながら、強いチームにしていけるように頑張っていきたい」と抱負を述べた。

新入団選手は18~26歳の21人。1人ずつ壇上に上がり、決意を述べた。21人のうち県内出身者は9人。
星野おさむ監督は「新球団の初陣(に向け、コンディション)をどこまで持って行けるかがカギ。開幕に向けてチーム力を上げていきたい」と語った。

チームは来年2月16日から練習をスタートする。

2014年12月9日 朝日新聞埼玉版掲載
石井義人 17期 元:読売
元巨人の石井義人氏 BC新規参入チームのコーチ就任へ
横浜、西武、巨人で18年間プレーし、今季限りで現役引退した元内野手の石井義人氏(36)が、来季から独立リーグ・ルートインBCリーグに
新規参入する武蔵(本拠地・埼玉県熊谷市)のコーチに就任することが25日、分かった。

武蔵は埼玉県出身の元阪神・星野おさむ氏が監督に就任。同じ地元・埼玉県出身の石井氏に白羽の矢を立てた。
石井氏は現役引退に際し、将来的な指導者としての現場復帰を希望していた。

2014年11月26日 スポーツニッポン掲載


前巨人・石井、BC武蔵コーチ就任!地元埼玉で第二の人生
現役引退した巨人・石井義人内野手(36)が、独立リーグのBCリーグに来季から参入する「武蔵ヒートベアーズ」のコーチに就任することが
25日、確実となった。条件面などの詳細は今後詰めていくことになるが、近日中に正式発表される見通しだ。

BC武蔵は、埼玉・熊谷に本拠地を置くチーム。石井自身も同県川口市出身で、浦和学院高時代は甲子園にも出場。
埼玉を本拠とする西武に在籍していたこともあり、生まれ育った地への愛着は、人一倍強かった。
地元を盛り上げたいという両者の思惑が合致して、合意に至ったもようだ。

10月25日に球団から戦力外通告を受け、「やりきったと言えばウソになるけど、プロで18年間やってきて、
こればっかりは自分で決めなきゃいけないことだから」と同27日に現役引退を表明した。

引退後は野球以外の道に進むことも考えたが、現役時代から「いずれは指導者になりたい」という夢を持っていた。
今季も空いた時間に、若手に打撃指導をする姿がグラウンドで見られた。
「教えた選手がうまくいくと、喜んでいる自分がいた。教えることには興味がある」と話していた。

横浜、西武、巨人とバット1本で渡り歩いてきた男が、指導者として第二の人生のスタートを切る。

◆石井 義人(いしい・よしひと)
1978年7月12日、埼玉・川口市生まれ。36歳。
浦和学院高時代は、春夏合わせ計3度甲子園に出場。96年のドラフト4位で横浜入り。
西武を経て、12年から今季まで3年間巨人でプレー。プロ通算939試合に出場し、打率2割9分、30本塁打、212打点。
178センチ、85キロ。右投左打。

◆武蔵ヒートベアーズ
埼玉・熊谷を本拠地とする県民球団。14年7月に、来春からのBCリーグへの参入が正式に承認された。
監督には阪神、楽天などでプレーした星野おさむ氏(44)が就任。
GMは元ロッテの五十嵐章人氏(46)が、宣伝部長は元オリックスのパンチ佐藤氏(49)が務める。

2014年11月26日 スポーツ報知掲載
鈴木健 8期
7月25日に鈴木健氏と清水直行氏が対決

西武とロッテは両球団が「Saitama」「CHIBA」と書かれたユニホームで対戦する
「埼玉vs.千葉ライバルシリーズ2014」の初戦(25日、西武ドーム)で、西武OB鈴木健氏と
ロッテOB清水直行氏が1打席対決を行うと発表した。

2014年7月7日 スポーツニッポン ネット配信
谷口英規 8期 現:上武大監督
上武大・谷口監督、チーム運営は「選手と本気で付き合う」
昨春の全日本大学野球選手権で初優勝を飾った上武大の谷口英規監督(44)が19日、千葉・幕張メッセで開かれた野球指導者講習会
(全日本野球協会など主催)のシンポジウムにパネリストとして参加。
「選手と本気で付き合うことが一番。嫌なことでもハッキリ言うこと」など、チーム運営の秘けつを披露した。

来年度の新入生を加えると部員184人の大所帯となるが、指揮官は「1か月2万スイング」など具体的な数字の目標を立ててチームを鼓舞しているという。
連覇へ向けては「全然、優勝なんて考えも及びませんが、いろいろ試してやっていきたいです」と話していた。

2014年1月19日 スポーツ報知 ネット配信
2013年
甲斐祐一 21期
元プロが挑む指導者への道(3)
甲斐裕一さん(31) 独立Lの経験伝授
八潮南高(埼玉県)の野球部コーチ甲斐(かい)裕一は、浦和学院の捕手だった2000年夏の甲子園に出場。
バッテリーを組んだ坂元弥太郎(ヤクルト、西武など)は、1回戦で19奪三振の大会タイ記録(当時)を樹立した。

「構えたところにボールが来る。打たれたら僕のせいだと責任を感じながらリードした」

国士舘大に進学すると教員免許取得を優先し、準硬式に転向。
だがプロ野球への夢は捨てがたく、大学院では社会人のクラブチーム・西多摩倶楽部でプレーした。

大学院修了後の07年秋、プロの入団テストに不合格となると、独立リーグのBCリーグ・石川のトライアウトで入団が決まった。
「野球を職にすればその経験は将来、指導者となっても役立つと思った」

石川で出会ったのが、プロでは打撃コーチとして数多くの打者を育てた監督の金森栄治。
その教えは「脇を締めろ。(スイングは)下半身から回せ」とシンプルだった。

半信半疑で練習を続けた1年後、「金森さんのいろんな教えがパッとつながった」と感じた。
打球の質が明らかに変わり、2年目の打率は.291と急上昇した。

チームはバスで6時間以上の移動が当たり前。
生活のため、オフにはスポンサーのもとで荷物の積み出しといったアルバイトに早朝から精を出し、夜は寝る間も惜しんで練習に打ち込んだ。

厳しい環境だったが、地域密着を目指す独立リーグは野球教室や中学の授業(総合的学習の時間)への参加で
子供と触れあう機会も多く、「やりがいはあった」。

10年オフに石川を戦力外となると、大学院で取った保健体育の専修免許を生かして埼玉県の臨時的任用教員(常勤講師)に就き、
2年で2つの中学に勤務。今春から現在の八潮南高へ転任した。

中学2年間の勤務実績が認められ、4月下旬に高校野球部のコーチとして指導が許可された。
打撃指導では、独立リーグでの経験を生かし「根本的なことから分かりやすく」を心がけている。

今秋、強豪ひしめく埼玉県大会で打ち勝ちベスト8に進出。
「彼の経験に裏打ちされたアドバイスは子供たちへの浸透力が違う」と監督の斎藤繁も感心する。

指導者としての目標はずばり甲子園。「出ると出ないとでは大違い。僕も実感しましたから」。
いつか母校(浦和学院)を倒して大舞台へと夢見る。

2013年12月8日 産経新聞 ネット配信
三浦貴 17期
元埼玉西武 三浦コーチが指導開始
「生徒と一緒に勉強したい」
1996年にエースとして浦和学院を初の春夏連続の甲子園出場に導き、プロ野球の巨人、埼玉西武で計9年間プレーした三浦貴コーチ(35)が
高校野球の指導資格緩和により30日から、選手への指導ができるようになった。

昨年4月から社会科教諭として教壇に立つ三浦コーチ。約3年半ぶりにユニホームに袖を通し「野球をやってるなって感じて、身が引き締まります」と
感慨深げ。早速ノックやメンバー外の紅白戦で監督を務めたりと、精力的に指導した。プロでは投手、野手を経験している三浦コーチは
「人として成長させる中で、技術を教え、生徒と一緒に野球を勉強していきたい」と希望に満ちた表情で抱負を語った。

2013年7月31日 埼玉新聞掲載
三浦貴 17期
元プロ三浦氏、石川氏が資格回復 新プロアマ規則で初
日本学生野球協会は29日、元プロ野球選手で現在教員を務める浦和学院高(埼玉)の三浦貴氏と、
埼玉平成高の石川賢氏の学生野球資格回復を承認した。

プロ経験者の資格回復条件が大幅に緩和されてから、新制度が適用されるのは初めて。
2人はともに教員歴が2年に満たないが、1日に施行された新規則ではこれまで元プロが学生野球の指導者になるための条件だった
「中学、高校で2年以上の教諭歴」の制限が除外されたため、資格回復が可能となった。

2013年7月29日 スポーツニッポン ネット配信
原田健輔 24期
共栄学園・下山9回サヨナラ打 浦学出身監督ねぎらう
東東京大会1回戦 共栄学園3―2都大島海洋国際 (7月11日)
共栄学園は2―2の9回1死二塁から下山がサヨナラ打を放ち、都大島海洋国際を3―2で下した。

今春センバツで優勝した浦和学院野球部出身の原田健輔監督は「攻め続けろと言って、それが結果につながった」と振り返った。

2013年7月12日 スポーツニッポン掲載
谷口英規 8期
野球部OB 谷口英規さん日本一の監督に!
昭和62年度、第8期卒業生の谷口英規監督率いる上武大学が、全日本大学野球選手権に見事初優勝を果たし、日本一に輝いた。
上武大学野球部には、本校野球部OBも多く進学している。谷口氏は、本校野球部が昭和61年,62年の夏の甲子園に出場した際のエース投手。
昭和61年にベスト4進出した時の立役者である。.

浦和学院高校の日本一、卒業生の日本一。本校にとっても、浦学ふぁみり〜にとっても、嬉しいビッグニュースである。.
谷口さん、おめでとうございます!.

谷口英規氏.
北区桜田中→浦和学院高校→東洋大学→東芝→上武大学准教授、野球部監督.
東芝時代にも日本一を経験、全日本の4番打者を務めた実績もある。

上武大が初の大学日本一! 亜大に逆転勝ち=全日本大学野球選手権
全日本大学野球選手権決勝が16日、神宮球場で行われ、上武大が亜大に6対5と勝利し、出場12回目で初の日本一に輝いた。
上武大は2点を追いかける6回、中稔真のタイムリーで1点を返すと、1死満塁から谷口英規監督は
「この子が打てなかったらあきらめもつく」と清水和馬を代打へ送る。
その清水が亜大2番手の左腕・諏訪洸のストレートをレフトスタンドへ運ぶ満塁本塁打を放ち、一挙5点を挙げて逆転した。.

投げては、ここまで防御率1.08と安定感抜群の左腕・横田哲が今大会4試合目の先発。
3回まで3点を失うも、コーナーを突く丁寧な投球を披露した。3点リードの9回には1点差に迫られ、
なおも1死二塁のピンチだったが、4番・中村篤史、5番・嶺井博希を打ち取り、見事胴上げ投手となった。.

試合後、3度宙に舞った谷口監督は「優勝の瞬間、いろいろなものを思い出して、OBの顔が浮かんできた。本当にうれしい」
と涙を浮かべて言葉を詰まらせた。

2013年6月16日 浦和学院公式ホームページ掲載
谷口英規 8期
上武大が初V!横田MVP/全日本大学野球
全日本大学野球選手権最終日は16日、神宮球場で決勝を行い、上武大(関甲新)が6-5で亜大(東都)を破り、
3年連続12度目の出場で初の大学日本一を達成した。関甲新学生リーグ代表の優勝も初めて。
11年ぶり5度目の頂点を目指した亜大は昨年に続いて準優勝に終わった。

今大会4勝を挙げた上武大のエース左腕、横田哲が最高殊勲選手賞と最優秀投手賞に選ばれた。
首位打者には12打数6安打の打率5割で、4強入りした明大の糸原健斗が輝いた。

上武大は1-3の六回に1点を返し、さらに代打の清水が満塁本塁打を放って逆転。
連投の横田は九回の亜大の反撃を2点に食い止めて逃げ切った。


谷口英規・上武大監督の話
「本当にうれしい。就任当初のこととかを思い出した。清水の本塁打は予想していなかった。
試合中はさすが亜大と思っていた。勉強するところはまだまだある」

生田勉・亜大監督の話
「敗因は私の六回の継投ミス。先発の山崎があと1回持ってくれれば九里でいけた。
諏訪は1年生の経験不足が出た。連続準優勝は悔しいが、絶対的なエースがいないと全国では勝てない。
上武大との差もそこにあった」

2013年6月16日 サンケイスポーツ ネット配信
鈴木健 8期
鈴木健氏が野村弘樹氏から快打
試合前に西武OB鈴木健氏(43)と、横浜OB野村弘樹氏(43)による「1打席真剣勝負」が行われた。

球場がどよめいたのは5球目。鈴木氏が放った打球は、右翼ポール際へ飛び、ポールのわずか右へそれた。
勝負は7球目までもつれ込み、右中間を破る完璧な一打を放った。

鈴木健氏
球速が128キロ出ていて速かった。びっくりしました。久しぶりに野村さんと対戦して、興奮しましたし、非常にいい思い出になりました。
日本シリーズでの対戦を少し頭に思い浮かべながら、こうして改めて対戦できて良かったと思います。
久々にホームラン性の手応えがあったので、まだ現役いけるのかなって、ちょっと勘違いしています。

野村弘樹氏
鈴木さんは現役のころとまったく構えが変わっていなかったので、その当時がよみがえってきました。
日本シリーズで対戦した1998年に比べると、お互いに年はとっていますが、
頭の中と気持ちはあの時と変わらないと今日改めて感じ、楽しませてもらいました。
ピッチャー心理からすると、鈴木さんはインコースを打つのがうまいバッターなので、
自然とアウトコースを投げていたんです。
そうしたら鈴木さんがインコースへ投げろって言うので、投げたらあのファウルでした。

2013年6月15日 日刊スポーツ ネット配信
2012年
鈴木健 8期
憧れのスターと練習
埼玉西武元選手 鈴木健氏が野球教室 蓮田・黒浜小
プロ野球埼玉西武ライオンズと東京ヤクルトスワローズで活躍した元選手の鈴木健氏(42)が、
蓮田市立黒浜小学校に招かれ、野球教室を開いた。

講師の鈴木氏は、背番号「8」を付けたライオンズ時代のユニホーム姿で、待っていた1年生の前に登場。
身長187センチの堂々とした風格が醸し出す雰囲気に「カッコいい。僕も野球選手になりたい」と辻村叶君。
現役時代を知らない子どもの目から見ても、スター性は健在だった。

軟式ボールを使い、キャッチボールからスタート。
「ボールを遠くへ投げるときは、助走した方が良いよ」と実際にボールを投げる手本を見せた。
約25分の「ボール投げ教室」はあっという間に終了。その後も学年別に次々と教室を開催した。
3・4年生はボール投げとバッティング、5・6年生はベースボール教室を行い、児童たちは楽しく学んでいた。
教室終了後は6年生と一緒に給食を取った。
「黒浜小の子どもたちはとても元気がありました。これをきっかけに野球が好きになればいいな」と話した。

鈴木氏は越谷市出身。同市内の小中学校を卒業後、浦和学院へ進学。夏の全国高校野球選手権には2度出場。
高校通算ホームラン83本は、当時の日本最多記録を打ち立てた。1位指名を受け西武ライオンズ(当時)に入団。
4番打者として活躍し、優勝に大きく貢献したスター選手。

2012年11月17日 埼玉新聞掲載
第1回IPF男子クラシックパワーリフティング選手権大会
6月11日~17日
開催地 ストックホルム(スウェーデン)
会場 Eriksdalshallen

男子105キロ級  武田裕介 24期 現:埼玉大コーチ 10位
男子74キロ級  
池上宏樹 30期 現:日本橋学館大 13位
武田裕介氏 24期
武田さん 銅メダル獲得
世界パワーリフティング「ベスト出せた」
スウェーデンで6月に開催したパワーリフティングの世界大会「ワールドクラシックパワー」の105キロ級で、
さいたま市在住で埼玉大ウエイトトレーニング部の外部コーチを務める武田裕介さんはベンチプレスで3位、
スクワットとデットリフトの2種目を合わせた3種目合計で総合の10位に入った。
「もっと結果を残したかったけど、現状ではベストを出したと思います」と、武田さんは振り返っている。

優勝したロシアの選手の総合は847.5キロで、武田さんは740キロ。
しかし、左脇腹を痛めていて、試技の順番も早く、あとの選手が武田さんの記録の上を狙って試技するなど、順番の運も悪かった。

武田さんは練習では800キロ前後を出していて、「世界は想像通り強かったけど、想像以上ではなかった」と話し、
「すごくモチベーションが上がった。50キロぐらいの差は埋まります」と言い切る。

工場でのアルバイトなどをしながら練習していたが、今月からは大学の先輩が東京・中野にオープンした同競技専用ジムで
働くことになった。「この競技で生活するという夢が叶ったし、競技に打ち込める環境が整いました」。武田さんはうれしそうに話す。

強い相手も3年以内で越え、国内では敵なしの武田さん。「次の大会では上位入賞、30歳までには世界を取ります」と、
大会後1ヶ月は休むことにしているはずが、もう練習を再開していた。

2012年7月10日 埼玉新聞掲載
鈴木健 8期
ボールこう持つんだ
元埼玉西武鈴木さんら 障害者に野球指導

障害がある人たちにもスポーツを楽しんでもらおうと、さいたま市浦和区の市営浦和球場で23日、元プロ野球選手による野球教室が開かれた。
野球教室は市主催で県障害者スポーツ協会が運営。今年で6回目。市内在住・在学・在勤の障害者ら約50人が参加した。

この日は、埼玉西武などで活躍した鈴木健さん(42)と小野和幸さん(50)が指導。
キャッチボールの際は、「ボールを軽く握り、力を抜いて投げる」などと声を掛けながら、約2時間半にわたって打撃練習や投球練習などに汗を流した。

参加した上尾市の中学3年新井棟矢君(14)は「ボールの持ち方とかが分かって、勉強になった。少しうまくなった気がした」と笑顔。
さいたま市大宮区の高校2年小沢綾奈さん(16)は「体を動かすのが好き。すごく楽しかった」と話していた。

鈴木さんらによると、障害者を対象にした野球教室が開かれることは、全国でも少ないという。
「垣根をなくして触れ合っていき、野球の楽しさを伝えていきたい」と鈴木さん。
小野さんは「障害者だからと気にすることなく、自分のレベルに合わせて体を動かしてもらいたい」と話していた。

2012年6月24日 埼玉新聞掲載
武田裕介 24期
第1回IPF男子クラシックパワーリフティング選手権大会
6月11日~17日
開催地 ストックホルム(スウェーデン)
会場 Eriksdalshallen

6月16日

男子105キロ級

スクワット 275kg・ベンチプレス 205kg
デッドリフト 260kg・トータル 740kg
ベンチプレス 世界3位 トータル 世界10位
武田裕介氏 24期
パワーリフティング日本王者 さいたまの武田裕介さん
磨いた筋肉 いざ夢へ
12日から世界大会出場
2011年ジャパンオープンパワーリフティング選手権105キロ級で日本記録を出して優勝した、さいたま市の武田裕介さんが、
12日からスウェーデンで行われる初の世界最高峰の大会「第1回ワールドクラシックパワー」に出場する。
「優勝するには武田のいない階級で」と国内では他の選手の階級を変えさせるほどの“絶対王者”が、
日本代表として「世界取り」に挑む。

★「捕まって」契機
パワーリフティングは、バーベルを肩に担いで持ち上げる「スクワット」、台にあおむけになった状態でバーベルを持ち上げる
「ベンチリフト」、床に置いたバーベルを腰の位置程度まで持ち上げる「デットリフト」の3種目の総称。
武田さんの3種目合計の752.5キロは日本記録だ。

埼玉大ウエイトトレーニング部の外部コーチを務める武田さん。競技と出会ったのは浦和学院高校に入学した時。
アメリカンフットボールをやるはずが、「先輩に捕まってしまって」とパワーリフティング部へ。
武田さんは「人数が少なかったので誰でも良かったんだと思います」と笑って振り返る。

それでも「数字で成長が分かる単純さが良い」とのめり込み、3年生の時に高校チャンピオンに。
進学した国際武道大(千葉県)では2年生から4年生まで大学3連覇を果たした。
昨年10月に行われた国内最大の大会でも2位の選手に約70キロの差をつけて圧勝した。

埼玉大では、部員に用具をプレゼントしたり、一緒に片付けもしたりする。「面倒見が良いんです」「こわもてだけど本当は優しい人」
「みんなのやる気の源です」と部員からの信頼は厚い。武田さんは「使わないのを持ってきているだけ」と照れくささを
ごまかそうとするが、「実は(キャラクターの)リラックマが好きなんですよ」などと暴露する部員たちに防戦一方だ。

★体重減に注意
日本王者とはいえマイナーな競技。理解者は少なく武田さんにスポンサーはいない。
それでも「50万かけても世界大会へ行った人にしか分からない世界があるから」と、工場のアルバイトや仲間のジムでスタッフとして
働いてためてきたお金を惜しげもなくつぎ込む。「この競技で世界チャンピオンになりたいんです。後のことはそれから考えます」。
迷いなどみじんもなく言い切る。

出場する105キロ級には世界各国の代表18人がエントリーしている。提出記録上では武田さんは12位。
しかし最近の練習で挙げた3種目合計800キロは上位に入る可能性が十分ある。

調整の具合について、「海外に行くと体重が落ちるのでそれは注意しないと」と話し、「あとは世界チャンピオンになるだけです」。
淡々と語りながらも、夢へ向けて闘志をみなぎらせていた。

2012年6月10日 埼玉新聞掲載
礒部繁男氏 7期
さつき盆栽展 「皐花(さつきのはな)」

6月8日(金)~20日(水)
大宮盆栽美術館


※礒部繁男氏は、さつき盆栽界における気鋭の盆栽作家であり、浦和学院高校の卒業生です。
高校時代は、サッカー部に所属し、サッカーでさいたま市選抜メンバーで海外遠征をするなど活躍していました。
栄誉あるさつき盆栽の、展覧会「皐樹展」において10度の最優秀賞を受賞しています。
昨年第86回国風盆栽展では、その年の最も輝かしい作品に与えられる国風賞受賞樹を手掛けるなど、数々の名品を生み出しています。

NHK「趣味の園芸」をはじめ、テレビや書籍を通じて、幅広くさつき盆栽の魅力を広め、国内外で活躍されています。

浦和ふぁみり~より転載

さつき盆栽家 礒部さんが個展
20日まで大宮盆栽美術館

さいたま市緑区のさつき盆栽作家礒部繁雄さんの個展が20日まで、同市北区土呂のさいたま市大宮盆栽美術館で開かれている。

礒部氏は盆栽作家の父・孝三さんの後継者として盆栽作家の道を歩み始め、これまでさつき盆栽の世界で最高賞を3回獲得したほか、
NHKの趣味の園芸の講師などを務めている。

今回は、これまでの作品中から選りすぐった作品を前半9点、後半に別の作品を9点と分けて展示。
「今年は寒暖の差が激しく花の調整が難しかった。1点1点どれも難しかった」と礒部氏。
「個展の中身は半年前から考えてきた。いろいろ試みた作品を展示しています。こうして少しずつさつき盆栽のファンを増やしていきたい」と話した。
初日の8日にはサッカーの浦和や日本代表のゴールキーパーを務めた友人の都築龍太さんも会場に姿をみせ、
「盆栽を見ると癒やされたり、リフレッシュされるところがある。すごいと思う」と話していた。

入場料は300円。65歳以上は150円。

2012年6月10日 埼玉新聞掲載
鈴木健氏 8期
夢の対決!鈴木健×野口茂樹


交流戦のシリーズ企画「夢の1打席対決」が試合前に行われ、西武OBの鈴木健元内野手(42)と中日OBの
野口茂樹元投手(38)が対決した。
鈴木氏は初球の121キロ速球を見送ったが、2球目を打ち左中間を深々と破って勝利。
「久々の地元、西武ドームでの打席だったのですが、野口君がバットを振ったところに投げてくれたので、
当たりました。本当に良かったです。当たらないと思っていましたから」と胸をなで下ろした。
野口氏も「久しぶりに真新しいマウンドで投げられて気持ち良かったです。気持ち良く打たれましたし、
いい経験をさせていただきました」と満足そうにコメントした。

2012年6月5日 日刊スポーツネット配信
2012年 第23回 IPFオープン 男子部門ベンチプレス世界選手権大会
5月21日~26日
開催地 開催地:チェコ共和国

Juniors 男子105キロ級
堀口耀介 32期 現:青山学院大 5位
思い出の甲子園で 阪神大震災時の元球児らに記念品贈呈
兵庫県西宮市は25日、「はつらつとしたプレーが被災地に与えた勇気に感謝したい」として、
1995年の阪神大震災の混乱で記念品を渡せなかった元球児らを甲子園球場に招き、フォトフレームを贈った。

対象は95年の春夏と96年春の高校野球大会に出場した選手や監督で、5校53人が参加。
この日はあいにくの雨天で、贈呈式を急きょ一塁側ブルペンで開催した。

行進曲「栄冠は君に輝く」が演奏され、河野昌弘西宮市長が「西宮の復興した姿を見てもらえ、記念品も渡せて感激している」とあいさつした。

東京都三鷹市の会社員西嶋章行さん(34)は報徳学園高校(兵庫県)3年の時に出場。
「当時は野球をしたいと言える雰囲気ではなかったが、大会には、自分の役割を果たそうと臨んだ。
今日は久しぶりに仲間に会えてうれしい」と笑顔を見せた。

選手らは贈呈式の前、ブルペンやベンチ、ロッカーなどを見学。
式後は出場校が表示されたグラウンドの電光掲示板をバックに各校で記念撮影した。

参加できなかった県内外の選手ら約2千人には、西宮市が学校を通して郵送などで届ける。

2012年2月25日 スポニチ ネット配信
西宮市 阪神大震災の球児に記念品贈呈式
2月、甲子園で

兵庫県西宮市は6日、阪神大震災が起きた1995年と翌96年に甲子園球場で開かれた
高校野球の春夏3大会に出場した選手への記念品贈呈式を2月25日に同球場で行うと発表した。

西宮市は1960年から出場選手に写真立てなどの記念品を贈っていたが、震災対応に追われて3大会だけ中断。
「当時はつらつとしたプレーで勇気を与えてくれた選手に感謝の意を表したい」と、さかのぼって贈呈する方針を昨年2月に発表していた。

記念品は甲子園球場の写真や市長のメッセージが入ったフォトフレーム。
贈呈対象は承諾を得た全国93校の選手や監督ら2077人で、プロ野球ヤクルトの藤本敦士選手や、米大リーグでプレーする福留孝介選手が含まれている。

旅費や宿泊費は自己負担のため、贈呈式に参加するのは兵庫県内5校の約100人。ほかの選手には2月下旬に郵送する。

2012年1月6日 スポニチ ネット配信

※浦学平成8年春、第68回選抜高校野球大会出場選手が対象だと思われます
2011年
木塚敦志 16期 現:横浜DeNAコーチ
プロの指導堪能
小学生球児 さいたまで野球教室

プロ野球選手が指導する教室「ハートフルベースボール」(埼玉新聞社など協力)が11日、さいたま市営浦和球場で行われ、
浦和軟式少年野球連盟、同市少年団野球部会浦和、同市浦和野球連盟で活躍する小学生球児が参加。
浦和学院高出で横浜の木塚敦志投手コーチ、千葉の大嶺祐太投手、元オリックスの福留宏紀氏との交流を楽しんだ。

教室は地域野球の活性化と青少年の健全育成を目的に実施され、今年で9度目を迎えた。ウォーミングアップ後にはキャッチボール、
ノック、ピッチング練習でプロの指導を堪能。
デモンストレーションでは大嶺投手と打者の福留氏との対決が実現した。10打席中2本塁打が飛び出し、
うち1本は場外ホームランと見どころが満載。プロの技術を目の当たりにした球児たちは大歓声を挙げて喜んでいた。

2011年12月14日 埼玉新聞掲載
清水崇行 12期 現:読売
セカンドルーキー(1)清水崇行・二軍打撃コーチ
大観衆の声援とカクテル光線を一身に浴び、グラウンドを駆ける選手たちも、いつかはユニフォームを脱ぐ時が来る。
華やかな現役生活を終え、新たに踏み出した第二の人生に、巨人軍を支える道を選んだ元選手5人の1年を追った。

「さあ、もうひと踏ん張り。頑張れ!」――夕暮れのジャイアンツ球場に、ティー打撃練習のボールを投げ上げる青年コーチの激励が響く。
額から汗を吹き出しながらバットを振り続ける若手選手は、顔を真っ赤にしながらも明るく元気な声につられてほほを緩ませ、また歯を食いしばる。
練習が終わると、いっしょにグラウンドに腰を下ろし、他愛のない話に笑い声が上がる。

選手時代より、ユニホームを着ている時間は長くなった。「自分を高めれば、チームの勝ちにつながる。
だから、現役時代はただ、自分のことだけを考えていればよかった」。
もちろん肉体的な疲労は軽減されたが、打撃コーチとして二軍の選手全体を指導する立場になり、
「考えることも増え、1日を終えると、別ものの疲れがありますね」と笑う。

現役時代は巧打の外野手として活躍。
特に、1番に定着して日本一に大きく貢献した2002年の年間191安打は、現在でもチーム最高記録。
優れた打撃技術と理論を持った清水コーチがいつも気をつけているのは、自分の指導を押しつけないことだ。
打撃フォームがみんな違うように、例えば「上からたたけ」と指導しても、バットが出てくる角度はそれぞれ少しずつ異なる。
同じ練習をしても、疲れ方も一人ひとりが違う。「結果としてヒットになればいい。バッティングには正解はないですから」。

09年に現役を引退し、グラウンドから少し距離を取った昨年1年間の評論家生活が、人間的な視野を広げるのに役立った。
14年間の現役生活で培ったものをマイクやペンを通じてファンに伝えるための表現力を学ぶにつれ、視野も広がった。

「人それぞれ」は、選手たちの心の面でもそうだ。教えるタイミングにも気を使う。
調子がいい時にアドバイスしても、なかなか素直には聞き入れてくれない。またその逆の選手もいる。
「それを声にして言ってくれると分かりやすいのですが……」。
ふだんのコミュニケーションなどで選手たちの性格をつかみ、なにげない言動や仕草で、自分を必要としているタイミングを見つけて、踏み込む。

しかし、そんな優しい兄貴分が、もどかしく思っていることがある。
「ファームの選手たちを全体的に見て、“職業野球”の意識をもっと高めてほしい」。
ジャイアンツのユニホームを着たことだけで、満足してしまっているように感じる選手もゼロではない。
「しかし、プロ野球はここ(ジャイアンツ球場)ではない」と、少し厳しい顔になった。
「ファームでクリーンアップに名を連ねて、ホームランを打って、それを自信につなげるのはいい。でも君たちが夢見ていた舞台は、東京ドームだったはず」
「確かに、プロの世界で成功するのは一握りだが、可能性はゼロではない。そのチャンスをつかむ手伝いをしたい」。
かわいい後輩たちを思うからこそ、厳しい言葉が並んだ。

◆清水崇行(しみず・たかゆき)◆
1973年10月23日生(38歳)
浦和学院高―東洋大―巨人(1996~2008年)―西武(09年)―巨人(11年~)
通算成績1485試合、4942打数、1428安打、131本塁打、488打点、2割8分9厘

読売巨人軍 公式サイトより
さいたまのライダー 松下ヨシナリ(9期生)
「後悔したくない」
けが乗り越えマン島TTレースに再挑戦
奇跡の復活から夢の実現へ。英国領マン島で今月末から始まるバイクの公道レース「マン島TTレース」にさいたま市南区の
アマチュアライダー松下ヨシナリ(本名・佳成」さん(41)が参戦する。2年前の同レースで転倒し大けがを負って以来、
2度目の挑戦。レースの過酷さは世界屈指ともいわれ、その危険さは、身をもって体験したが、「やらずに後悔したくない」と
完走を目指している。

マン島TTレースは島内1周、約61キロの公道を周回する。公道のため起伏が激しく、住宅街を200キロ近い速度で
走り抜けることもあることから、転倒者が相次ぎ、命を落とす人もいる。1907年に始まり、世界最古のレースと知られている。

松下さんは2009年に初参戦。1レース目は完走したが、別のクラスの2レース目で転倒し、病院へ運ばれた。
診断の結果、肩甲骨や足首などを複雑骨折。帰国して手術をし、全治まで10ヶ月近くかかった。

その間、日本人のレーサー仲間2人がバイクで走行中に転倒して死亡。
自身も転倒して危険な思いをしただけに、「死」の恐怖を実感する日々を過ごしてきた。

それでも再挑戦することを決めた。「人生は1度きり。かなえられる夢があるなら、努力しなさい」。
7年前に亡くなった母親が残した言葉にも、後押しされた。「人はいつか死ぬ。それなら生きてるうちにやれることをしっかりやりたい」。
事故以来、参戦断念を考えたことは1度もなかった。

今回は1000ccなどの4レースにエントリー。電動バイクで争うレースにも日本人で初めて、国産メーカーのバイクで参戦する。
初めての体験に不安もついてまわるが、「テスト走行では楽しく乗れた。本番でも期待できそう」と手応えを感じている。

レース以外にも、現地で東日本大震災の惨状を伝え、海外の人に募金を呼びかけるつもりだ。
4月にフランスで開かれたレースで同様の呼びかけをしたところ、「日本を助けよう」との声が高まり、14万円近く集まった。

「こんな時期だからこそ、自分が挑戦する事で元気になってくれる人がいれば」と松下さん。
自身の夢、亡くなった母や友への思い、復興への思い。様々な思いを乗せて、レース場を走り抜ける。

2011年5月16日 埼玉新聞掲載
木塚敦志 16期 横浜投手コーチ
プロの気迫伝えたい 木塚敦志


新米コーチの分厚い胸には一つの誇りがある。
右横手から、プロ11年間で積み重ねた490試合。先発は一試合もない。連続救援登板のセ・リーグ記録だ。
荒れたマウンドから前かがみにサインをのぞき、グラブ内の球をこねくり回す姿が印象的だった。

だが、長年の疲労が右肩をむしばんだ。「投げられるかと言われて断ったことはなかった。それができなくなった」。
33歳でマウンドへの未練を断ち、指導者の道を選んだ。

体を張る。そして小手先で勝負しない――。気迫の投球を支えた信条だ。選手には気持ちをうまく切り替えることも伝えたい。
「どんな結果が出ようと、次の朝、『おはようございます』と大きな声で言えないと。それがプロ」

試合ではブルペンから流れを読み、選手をマウンドへ送り出す。
現役時代は1回からブルペンに控え、その一方でストッパーの経験もある。
「それぞれの思いを知っている。勝負どころや気持ちの持っていき方を伝えられたらいい」

 チームには若手が多い。春季キャンプから対話を心がけてきた。
「人を見るのは難しい。自分の考えだけで見ないようにしている部分もある」。発見と勉強の日々だ。

2011年4月17日 朝日新聞掲載
震災直後の甲子園球児、見送った記念品贈呈へ

兵庫県西宮市は、1995~96年に阪神甲子園球場(兵庫県西宮市)で開かれた高校野球の春夏3大会の出場選手らに、
16、17年越しの「出場記念品」を贈る方針を決めた。

阪神大震災後の混乱で途絶えたメモリアルグッズだが、被災地をプレーで激励してくれた当時の球児らに感謝の意を込めて、届けるという。

記念品の贈呈は、60年にスタート。約50年続いているが、震災直後の95年春夏、96年春の各大会は、
記念品の費用が復旧に充てられ、贈呈は見送られたという。

今回は、震災15年の節目が過ぎ、街並みも復興したとして、市が企画。来年度の当初予算案に約340万円を計上した。
OB会に住所を照会したり、地元自治体の広報紙で呼び掛けたりして、約2300人の選手らに、直接、記念品の写真立てを郵送する。

2011年2月10日 読売新聞ネット配信

※浦学野球部は1996年に甲子園出場をはたしていますので、当時の選手は該当すると思われます
2011年1月2日
鈴木健 8期

日本プロ野球OBに韓流スターが挑戦


山田久志氏(62)率いる日本プロ野球OBチームと、人気韓流スターの野球チーム「プレイボーイズ」が対戦する
チャリティーイベント「ドリームゲーム2011」が2日、東京ドームで行われた。試合は、12投手をつぎ込んだプロOBチームが
12-6で勝利。出場選手で最年長の村田兆治氏(61)は、ダイナミックな「マサカリ投法」で打者4人を1安打無失点に抑えた。
直球は131キロを記録。「全力で投げました。でも4番バッターにはいい当たりでセンターに持っていかれたね」と少し悔しそうに話した。 

MVPには3打数2安打2得点の鈴木健氏(8期 40)が選ばれた

日本プロ野球OBドリームチーム出場選手

▼監督
山田 久志  背番号17(阪急)
▼コーチ
柴田 勲   背番号7 (巨人) 大熊 忠義  背番号12(阪急)
福本 豊   背番号7 (阪急) 得津 高宏  背番号25(ロッテ)
▼投手
佐藤 義則  背番号11(阪急) 斉藤 明夫  背番号17(横浜)
野田 浩司  背番号18(阪神) 中田 良弘  背番号28(阪神)
村田 兆治  背番号29(ロッテ) 阿波野 秀幸 背番号49(横浜)
▼捕手
市川 和正  背番号33(横浜) 大宮 竜男  背番号27(日ハム)
達川 光男  背番号40(広島)
▼内野手
元木 大介  背番号2 (巨人) 松永 浩美  背番号8 (阪急)
鈴木 健  背番号9 (ヤクルト) 駒田 徳広  背番号10(巨人)
初芝 清   背番号6 (ロッテ)
▼外野手
大友 進   背番号37(西武)  本西 厚博  背番号9 (オリックス)
佐々木 誠  背番号3 (ダイエー) 石井 雅博  背番号51(巨人)
竜 太 郎   背番号48(楽天) 小関 竜也  背番号31(西武)
高橋 智   背番号44(オリックス) 後藤 孝志  背番号50(巨人)
2010年
木塚敦志 16期
木塚氏1軍投手コーチ、元日本ハム・白井氏が2軍監督 横浜
横浜は5日、来季のスタッフを発表した。
1、2軍で大幅に入れ替え、今季は業務提携している中国・天津で監督を務めた高木由一氏(61)が1軍打撃コーチで復帰。
今季限りで現役引退した木塚敦志氏(33)が1軍投手コーチに抜てきされた。
元日本ハム・ヘッドコーチの白井一幸氏(49)が2軍監督に就任した。

2010年11月6日 スポーツ報知掲載
清水崇行 12期
巨人 森脇氏らの就任発表 「木村コーチの分も」
巨人は26日、森脇浩司前ソフトバンクヘッドコーチが2軍内野守備走塁コーチに、巨人OBの清水崇行氏が2軍打撃コーチに、
西武や巨人で活躍した小関竜也氏が2軍外野守備走塁コーチに、それぞれ来季から就任すると発表した。
森脇氏は「巨人のユニホームを来てノックバットを持つ以上、(4月に亡くなった)木村コーチの分も責任を持ってやっていく」と抱負を述べた。
清水氏は「どういう選手になれば1軍で活躍できるか、答えを出す手伝いをできれば」、小関氏は「指導者として初めての機会。
まずは選手を知るところから始めたい」と話した。

2010年10月26日 スポニチ ネット配信
清水崇行 12期
原巨人に清水氏入閣! 打撃部門担当へ
巨人の岡崎郁2軍監督の来季1軍ヘッドコーチ就任が24日、確実となった。クライマックスシリーズファイナルステージ(最終S)
敗退から一夜明けたこの日、伊原春樹ヘッドコーチの編成本部シニアアドバイザーへの転任が決定。
代わってファームから岡崎2軍監督を“昇格”させることで、1、2軍一体でチーム強化に取り組む体制を整える。
また、ファームの打撃強化へ元巨人外野手でシーズン最多安打の球団記録を持つ清水崇行氏=スポーツ報知評論家=が、
入閣することも明らかになった。

巨人に安打製造機が帰ってくる。清水氏の正式なポストは未定だが、打撃部門を担当することが濃厚だ。
02年にチームのシーズン最多安打となる191安打をマークした達人に、次代の主力打者が託される。

ファームの打撃底上げは急務だ。清武球団代表は24日、来季のコーチ人選について「投手陣だけでなく、
打撃陣にもいろいろな問題があった。
若手の成長も含めて大きな課題を残している。若い人を中心に新しい体制になる。育成力をさらに増していきたいと思う」と説明。
37歳の清水氏はまさにうってつけの存在と言える。

清水氏は96年から08年まで巨人で主力として活躍。
原監督就任1年目の02年には、攻撃的1番打者として191安打を放って、日本一にも貢献するなど、
トップレベルの打撃技術でチームを引っ張ってきた。

08年オフには、自ら志願して西武にトレード移籍。
09年、ロッテとの開幕戦(千葉)でも猛打賞を記録するなどリーグが変わっても、高い技術で対応。
現役14年間で1428安打、打率2割8分9厘と安定した成績を残してきた。

今季は評論家として1軍のみならず、G球場も頻繁に訪れファームの選手を熱心にチェックしてきた。
もちろん現役時代をともに過ごした選手もいるだけに、兄貴分的な存在で「清水2世」の育成に全力を注ぐことになる。

◆清水 崇行(しみず・たかゆき)1973年10月23日、東京都生まれ。浦和学院高から東洋大を経て、95年ドラフト3位で巨人に入団。
02年にはチームシーズン最多の191安打で、セの最多安打のタイトルも獲得し日本一に貢献。
08年オフにトレードで西武へ移籍し、昨季限りで現役引退した。
通算成績は1485試合、打率・289、131本塁打、488打点。183センチ、83キロ。右投左打。

2010年10月25日 スポーツ報知 ネット配信
木塚敦志 16期 現:横浜
木塚氏が1軍、川村スコアラーが2軍の投手コーチに
難航していた横浜の投手コーチ人事が20日、固まった。今季限りで現役引退した木塚敦志氏が1軍投手コーチに、
川村丈夫スコアラーが2軍投手コーチとして、2年ぶりに現場復帰することが有力となった。

木塚氏は主にリリーフとして横浜一筋11年。人望も厚く、指導者1年目の大抜てき。
2軍投手コーチは今季、巨人担当スコアラーとして、尾花監督のアナライジング・ベースボールを支えた川村氏に任せる。
また、吉田篤史2軍投手コーチが1軍に昇格し、岡本克道1軍投手コーチは2軍降格が有力だ。

野村弘樹1軍投手コーチの今季限りでの退団、元ロッテ・黒木知宏氏の招へい失敗。
投手コーチの人事は混迷を極めていたが、12球団ワーストのチーム防御率4・88で投手陣再建は急務で、一足早く決まった。
球団は身売り騒動で揺れているが、尾花政権2年目は編成会議が行われる25日にも発表される見通しだ。

2010年10月20日
清水崇行 12期
元プロ野球選手が熱血指 水野氏、清水氏らに少年322人感激
プロ野球で活躍したスーパースターから直接指導を受けられ、さらに野球を通じて社会貢献もできる少年野球教室
「ファンケル キッズベースボール チャレンジ」(主催・報知新聞社、特別協賛・株式会社ファンケル)が11日、
新潟市のHARD OFF ECOスタジアム新潟で、新潟県下の29チーム、322人の小・中学生、講師7人が参加して行われた。
この野球教室は、今後も、札幌(10月11日)、横浜(11月14日)、那覇(12月、日にちは未定)で行われる。

322人の野球少年が目を輝かせて、かつての名選手の言葉に耳を傾け、グラウンドに元気な声を響かせて、野球教室が始まった。

開会式で、特別協賛の株式会社ファンケルの村上晴紀取締役執行役員は「日本や世界の子供たちに野球を通じて、
笑顔を届けようという趣旨に共感しました。今日は、すばらしいコーチの方々と一緒になって野球を学び、
楽しんで、笑顔になってください」とあいさつした。
村上さんのあいさつの通り、講師陣7人は、水野雄仁さん、清水崇行さん(ともにスポーツ報知評論家)、駒田徳広さん、
槙原寛己さん、宮本和知さん、佐野元国さん、久保文雄さんと、現役時代に確かな実績を残した人たちばかり。
その講師たちが、キャッチボールの基本から始まり、各ポジションに分かれて、投球、守備、走塁、打撃と、
文字通り手取り足取りの技術指導を行った。

投手部門では水野さんが「グラブの中の手を強くかいて脇の下に持ってくると、ひじが前に出て、それだけで球が速くなる」と教えると、
未来のエースたちは真剣に聞き入った。走塁部門では清水さんが一塁ベースの踏み方を指導。
駆け抜けるとき、オーバーランするときに分けて、細かく“プロのテクニック”を伝授するなど、内容が濃かった。
スキルアップだけなら単なる野球教室にすぎないが、このプロジェクトには、野球で培った健やかさを社会貢献に反映させるという、
もう1つの大きな目的がある。参加者に、使用しなくなった野球用具を持ち寄ってもらい、用具の不足に悩んでいる国や地域へ
寄贈しようというものだ。この日、集まった野球チームから提供された野球用具は、バット90本、グラブ93個、ボール910個など、
1193点にのぼった。認定NPO法人「アフリカ野球友の会」などを通じて、海外の子供たちを中心に寄贈される。
野球を通じて社会貢献しようとする新しい試みの野球教室が、世界の子供たちに“笑顔”を届ける。

2010年9月12日 スポーツ報知掲載
元巨人・西武・三浦貴
「有限会社エース」引退後記

三浦貴 
17期
1978年(昭53)5月21日生まれ。埼玉県出身。
浦和学院、東洋大を経て00年ドラフト3位で巨人に入団。1年目から開幕1軍入りし、中継ぎ投手として49試合に登板。
03年原監督の薦めもあり、野手に転向。同9月15日には中日平井からプロ初本塁打。
07年戦力外通告を受け、トライアウト受験後、西武に入団。
09年10月7日のシーズン最終戦に先発出場も、翌日戦力外通告。
再びトライアウト受験も獲得球団なく現役引退。
投手として通算52試合に登板し3勝2敗0セーブ、防御率3.56。
野手としては82試合に出場。打撃通算は打率1割9分3厘、1本塁打、5打点。
背番号は39・54・53。
181センチ、80キロ。右投げ右打ち。

ユニホーム姿を最後に見てから1年もたっていない。三浦さんを新人時代から知る仲は、世間話が許される。
3人目の子どもが3月18日誕生。「また女の子。3姉妹です」と、笑顔は現役時代と変わらない。
だが、着ているものは作業着。表情は野性味を増していた。
埼玉・川越市「有限会社エース」の応接室で昔話に花を…とはいかなかった。時間が、ない。

西武に移籍した2年目の09年10月7日のシーズン最終戦、三浦さんは先発メンバーで試合に出場していた。
日本ハム戦(札幌ドーム)で6番一塁。途中から守備は三塁を守り、最終回の4打席目には左前打を放っている。
すでに4位が決定している状況で、来季を見据えたオーダーを並べてもおかしくない。
だが翌8日、札幌から空路帰京する前に、マネージャーから東京プリンスホテルへ向かうよう伝えられる。

経験した者ならすぐに戦力外通告と理解できる。
「10年はやりたかったんで、トライアウトは受ける前に1回目でダメならスパッとあきらめようと」。
韓国球団から声がかかったが、日本のプロ球団からはオファーはなかった。
「31歳だし、子どもも小学生になってすぐ。独り身ならもがいたかもしれない。仕事をしないと始まらないですから」と決心。
母校の恩師へ引退の挨拶回りに行った。

夢があった。指導者になること。高校時代にも指導を受けた浦和学院・森監督に告げると「教職を取って、ウチに来るか」だった。
母校で夢が実現できるかもしれない。だが、大学の2部に通いながら働くには、時間の制約が生まれる。
「内定を頂いた企業もあったんですが、どうしても夜8時ぐらいになってしまう。(教職の)通信教育だと時間がかかる」。残業はできない。

また。母校が救う。自宅から遠くない運送業を営む有限会社エースの社長が、東洋大硬式野球部の先輩だった。
「車も嫌いじゃないし、お願いしました」。車といっても、運転するのは4トントラックだ。ホンダの工場に車の部品を運び、下ろす。
倉庫と工場の往復は計9回に及ぶ。エンジンなど数百キロに達する物もある。必要なのはフォークリフト。5日間で免許を取った。
東洋大2部に通う土台が出来た。

三浦さんのタイムスケジュールはタイトだ。
午前6時前 出社・出発
午前6時20分 部品を下ろすなど、倉庫と工場の往復9回
午後3時 帰社
午後4時 帰宅
午後5時 大学へ出発
午後6時10分 講義
午後8時30分 講義終了
午後10時 帰宅
午前0時 就寝

週5日、寝る間も惜しんで夢へと突き進んでいる。土曜日には会社の軟式野球チームの練習にも参加。 
日曜日は家族との時間を楽しむ。
「しんどいとは思わない。やらされているのではないし、先生になるために学校に行っている。
飯を食べるための仕事。睡眠は少ないけど充実しています」。フルスイングだ。

夢はでかい。「高校野球の指導者になって全国優勝。母校を采配して埼玉県初の全国制覇ですね」と目を輝かせる。
指導者像は…。「高校生って1番伸びる時期。その3年間はすごく野球人生の中で大きなウェートを占めている。
うまくなったら大学とかプロとか、いろんなことがある。3年間野球をやって、すごいしんどいと思う。
それをその後の人生に生かせばいいと思う。教えるのは監督でもやるのは選手。自分で考えられる選手を育てたい」。

4トントラックの助手席にお邪魔した。見下ろすような車高は初めての感覚だった。駐車場に戻した後、
マイカーで川越駅まで送ってくれた。
わずかな時間で、また子どもの話に戻る。現役時代、酩酊した私の背中を押しながら階段を上がってくれた事を思い出す。
大きくシフトチェンジしたように見える今も、飾らない笑顔は変わらない。三浦貴は、またグラウンドに帰ってくる。

日刊スポーツ 野球コラム「ニッカン 今井でございます」2010年6月17日掲載
清水崇行 12期
清水、立浪、赤星の3氏が日テレ解説者入り
主に巨人の主催試合を中継する日本テレビが26日、昨季現役を引退した元巨人で前西武の清水氏、元中日の立浪氏、元阪神の赤星氏が
今季から中継解説を務めることを発表。

レギュラー解説者の清水氏は「左打者の解説は経験も踏まえて話せる。野球界を盛り上げたい」と意気込みを語った。
立浪氏も「野球選手の凄さを子供たちに伝えたい」と意欲。赤星氏は「阪神では金本さん、巨人では松本くんに注目したい」と語った。

2010年1月27日 スポニチ掲載


昨季引退トリオが経験生かし解説 日テレ・プロ野球中継
日テレ系の野球中継番組「日本プロ野球2010」の新解説者発表会見が26日、東京・汐留の同局で行われ、元中日の立浪和義、
元巨人、西武の清水崇行、元阪神の赤星憲広の3氏が出席した。

同局は巨人の主催試合を地上波で22試合、BS日テレで56試合、日テレG+で全72試合を放送する予定。
清水氏はレギュラー解説者、立浪氏と赤星氏は年数回のスポット解説者を務める。
いずれも昨季引退したばかりの“フレッシュ”な顔ぶれだ。

内野守備のスペシャリストだった立浪氏は「22年間の経験をいかした解説で、選手のすごさを伝えたい。注目しているのは
(巨人の)小笠原選手」。
左の安打製造機として活躍した清水氏は「(巨人の)高橋由伸選手の復活に注目したい」。
赤星氏は阪神・金本に加え、「自分と似ているタイプ」として巨人・松本の名前を挙げた。

2010年1月27日 スポーツ報知掲載
2009年
三浦貴 17期
浦学で甲子園目指す 教職の道へ
西武を今季限りで退団した三浦貴外野手は、第2の人生に教職の道を選んだ。

「いずれは浦和学院に戻って、甲子園で勝てるチームにしたいですね」。

目指すは母校で高校野球の監督。社会科の教員免許に必要な単位を取得するため、春から東洋大の夜間コースに2年間通う。
昼は運送会社に務め、夫人と子ども2人の家族を養う。

元プロ選手が高校野球の監督になるためには、常勤教師として2年以上の勤務が必要。
免許取得も合わせれば、最低4年は野球現場から離れるが「東洋大先輩の大野久さん(東洋大牛久で野球部監督)など、
プロから監督になられた方がいるのは心強い」と支えにする。

2009年12月31日 日刊スポーツ掲載
5月4日に紹介させて頂いた浦学野球部OBの松下さんの『マン島TTレース挑戦』の続報です!

マン島TTレース 完走
日本人で唯一参戦松下ヨシナリ

6月上旬に英国王領のマン島で行われた世界最古の公道二輪レース「マン島TTレース」に日本人で唯一参戦。
初めてのレースで見事に完走を果たし、「充実感と満足感。何とも言えない感動があった」と感慨深げに話す。

島1周(約60キロ)の公道を6周走る「スーパーバイククラス」では、出走70台中43位の好成績。
初参戦での完走に現地の人は驚き、地元メディアでも取り上げられた。改造バイクで島を3周する
「スーパーストッククラス」にも参戦し、自己ベストを更新する勢いで走ったが、レース中に転倒。
右足首骨折などのけがを負い、帰国後は入院生活を余儀なくされた。

完走を喜ぶ一方、転倒したことに「やり残してきたことが出来てしまった」と悔しさをにじませる。
だが、来年も参戦を目指すかと聞かれると「家族や体と相談したい」とお茶を濁す。
レース中に命を落とす人がいるほど過酷なレース。安易に「参戦したい」とは言えない。

それでも「またバイクには乗りたい。レースだけでなく、旅や景色を見に行きたい」という。
「根っからのバイク好きなんですね」。あこがれのレースで完走を果たしたライダーは、声を弾ませた。

2009年7月13日 埼玉新聞掲載
球児からライダーへ
さいたまの松下 マン島TTレース挑戦
「完走し、その先の景色を」

英国王領のマン島で30日から行われる世界最古の公道二輪ロードレース「マン島TTレース」にさいたま市南区の
松下ヨシナリ(本名・佳成)さんが日本人で唯一、参戦する。松下さんはデザイン業などを営むアマチュアライダー。
過酷で知られるレースに初めて参戦することに不安も抱えるが、「完走して、その先に見える景色を見てみたい」と意気込んでいる。

◆紆余曲折の人生
松下さんは高校時代、野球の名門・浦和学院で野球部員として練習に明け暮れた。
チームは甲子園に出場したが、けがなどもあり、ベンチに入れず。卒業後に、ライダーとしての道を歩み始めた。
プロライダーを夢見て新たな挑戦を始めたが、プロライダーの道は険しく、度重なるけがの影響で夢を断念。
27歳でデザインの勉強を始め、「UPdesigns」を立ち上げた。
「当時はバイクから離れたかった」という松下さんが、再びハンドルを握るようになったのは、友人と一緒にツーリングに
出かけたこと。「バイクは速さを競うだけではない。旅する楽しさや愛でる楽しさもある」。以来、デザイン業の傍ら、
アマチュアレーサーとしてレースに参戦したり、「二輪ジャーナリスト」として競技の楽しさを伝えるようになった。

◆マン島TTへのあこがれ
ジャーナリストとして2006年に初めて取材したマン島TTレース。
街中を高速で走り抜ける迫力に圧倒され、いつかここで走ってみたいと思うようになったという。
取材対象から憧れの舞台へ。07年にもレースを取材し、その思いはますます強くなった。
07年11月、東京都が火山災害からの復興を目指し、三宅島で公道を使ったオートバイイベントを企画した。
そこにはマン島TTレース優勝経験者としてゲスト参加したベテランレーサーのイアン・ロッガー選手(42)=ウェールズ=らと
行動をともにする機会を得た松下さん。イアン選手に「TTレースに出てみたい」と打ち明けたところ、
それまでの実績が評価され、参戦が認められた。
「最初は参戦を口にするのもためらわれたが、人生1度きり。友人に『夢は声に出さないと叶わない』と背中を押され、
挑戦することが出来た」

◆アラフォー代表として
マン島TTレースに参戦が決まったものの、公道で長距離を走ったことがなく、練習場所もないことから「ぶっつけ本番」。
不況の影響からか、スポンサーも思うように集まらず、満足な資金も得られない。体力的な不安も抱えるが、
「人間やればなんとなかる」と笑い飛ばす。地元から応援する人が現れ始めたことも、大きな支えとなった。
「マン島TTレースは最大にして最高の目標だった。どんな時代や年齢でも夢を忘れず挑戦すれば、必ず思いは成就する。
走りきった先に何が見えるかは想像もつかないが、『アラフォー』の代表として走り抜いてきたい」
39歳にして世界屈指の難コースに挑戦する「遅咲きのレーサー」の目は、夢と希望に満ちあふれていた。


★マン島TT(TouristTrophy)レース
毎年5月下旬から6月上旬にかけ、世界中からライダーが集結して行われるロードバイクレース。
期間中は公道を閉鎖、1周約60キロの島内を3~6周し、順位を競う。バイクの排気量などで5クラスに分かれ、
1クラス80~100人程度が参加する。
レース専用のサーキットと異なり、起伏に富んだ道や民家の壁ギリギリのカーブなどを平均200キロ近くで走り続けることから、
中にはレースで命を落とす人もいる。1907年から始まり、日本人も多く参戦している。

2009年5月4日 埼玉新聞掲載



inserted by FC2 system